前回のコラムでお伝えしたとおり、私は今年の1月2日
高校サッカー選手権の2回戦、埼玉県代表・市立浦和高校VS兵庫県代表・滝川第二高校の試合を実況させていただいた。
現在のさいたま市立浦和高校、かつての浦和市立(うらわしりつ)高校は、まだ選手権が関西、主に兵庫県・西宮で開催されていた昭和30年代から40年代にかけて4度の優勝を誇るいわゆる古豪だ。
古いサッカーファンなら浦和市立の呼び方の方がピンとくるだろう。
ちなみに高校野球ファンの私は1988年(昭和63年)の夏の甲子園で初出場ながらベスト4まで進出した“さわやか浦和市立高校”の印象が強い。
私はこの年の「熱闘甲子園」を見て初めてアナウンサーになりたいと思った。
余談になるが、今回実況するにあたり、市立浦和まで取材に行かせてもらい、現在も指揮を執る野球部・中村監督に会うことができた。
「あの時のチームのことはいまだによく言われるんで嬉しいですよ。
あーそうですか、今度実況されるんですね。まあ、頑張ってください」と20年前、甲子園の時と同じ笑顔で僕に対応してくれた。
また、ひとついい思い出ができた。
かつて、静岡・広島と並んで「サッカー御三家」と言われた埼玉代表もこと高校サッカー選手権では、最近成績が芳しくないが、サッカー熱のある浦和という土地柄、周囲の期待も当然高い。公立校とはいえ、かかるプレッシャーも相当だ。
だが、私立高校が台頭してきた近年、市立浦和高校が選手権の舞台に立つのは今回が12年ぶり。
昨年の学校全体の現役大学進学率が86%という県内有数の進学校で選手権メンバー3年生18人のうち、
センター試験を受験するのが16人。本大会を前にサッカーのみに集中というわけにもいかない。
池田一義監督は、全試合、相手校有利と言われる中で県大会を勝ち抜いた喜びも束の間、すぐに不安がよぎったと言う。
「決勝戦が終わった後、すぐに選手に言いました。“受験で不安のある奴は夜電話してきなさい“と。1人か2人はかけてくるかなと。」
しかし、実際は一度も携帯電話が鳴らなかった。
「あれで、選手の覚悟が伝わってきたよね。だから、翌日、“勉強しろとか一切言わない。俺もこの選手権にすべてをかけるから”と伝えた。実際、3年生は本当にきついと思う。
本来なら一日10時間くらい勉強しなきゃいけないこの時期にサッカーと両立させなきゃいけないんだから。
まさに、文武両道を地でいく1ヶ月半だった。だからこそ、この子たちに勝たせてあげたいんだ。」と選手の決意の固さに目を細くしていた。
私も今から16年前と15年前(2回!)にセンター試験を受けた。
この12月から1月上旬にかけての時期の大切さは分かっているつもりだ。
主将・徳島は、宿舎に参考書を5冊持ち込んでいる。
心の中で「頑張れ」と何度叫んだことか!
2009年元日。
練習場所は、試合会場となる埼玉スタジアム2002側のグランドだった。
練習開始前、池田監督は「初詣だ」と言って、突然スタジアムの方を向いた。
「ほら、みんなもお祈りしよう!」
スタジアムを神社に見立て、全員で“初詣”をしたのだ。
今回、監督として選手権に挑むのは初めての池田監督だが、選手の乗せ方は本当に上手い。
私も祈った。「いい試合になりますように!」と。
結論から言うと、好ゲームだった。
どちらが勝ってもおかしくなかった。差はなかった。
80分で試合は決まらず、勝敗はPK戦までもつれこんだ。
滝川第二0-0(PK5―4)市立浦和。
スコア上も滝川第二がたった一つ数字が多いだけ。
だが、この数字ひとつの差がトーナメントではとてつもなく大きい。
市立浦和初戦敗退―。
PKを外した選手は、池田監督曰く「普段からサッカーに対してひたむきに取り組んでいる生徒」だった。
12月下旬、監督の自宅でバーベキューパーティーを開催した時、熱心に監督にサッカーの質問をしてきたのは、彼だった。
直前の練習試合でも活躍していた。
試合後のロッカールームには、泣きじゃくる彼を見て
「お前だけでやったんじゃない!みんなでサッカーをやってんだ!
今持てる力をすべて出そうと言ったじゃないか!出せただろ!!」と“熱く”労をねぎらったそうだ。
敗れても指輝官に悔いなし。
古豪復活へ、市立浦和の戦いはまだまだ続いていく・・・。











