“自慢のドリブルで魅せる”~湘南ベルマーレ・石橋瀬凪(神戸弘陵学園出身)~

103回目の“センシュケン”は、劇的なフィナーレとなった。
群馬・前橋育英がPK戦の末、千葉・流通経済大柏に勝ち、7大会ぶり2度目の頂点に立った。
今から10年前に埼玉スタジアムで行われた同カード(浦和・渡邊凌磨、G大阪・鈴木徳真、コベントリー・坂元達裕らが出場)を実況した筆者としても、ドキドキハラハラの展開。
山田耕介監督にも当時、取材で色々お世話になったので、「高校サッカーはすばらしいもの」という優勝インタビューには感動した。

|「きっかけは“センシュケン”での活躍」

時計の針を約1年前に戻す。
102回大会、その前橋育英は2回戦で敗れた。当時2年生のオノノジュ選手や石井選手も先発出場していた試合、勝ちどきをあげたのは、兵庫・神戸弘陵学園だった。

「県内でも強豪のチームで2年生から全国に出られて、“センシュケン”の経験は大きかったです」

声の主は、神戸弘陵学園・石橋瀬凪(いしばし・せな)選手。
卒業後、この春からはJ1湘南ベルマーレでプレーをする。

「3回戦の鹿児島・神村学園戦では、唯一の得点を挙げられましたし、高校からプロを目指すという大きなきっかけとなりました」

石橋選手は、兄・莉玖さんの影響で、小学1年生から地元・神戸市の駒ヶ林FCでサッカーを始めた。
その後、ヴィッセル神戸の下部組織でプレー、高校は、“センシュケン”12度の出場を誇る県内屈指の強豪校に進学。
3年時の予選では、ベスト8で敗退と惜しくも涙を飲んだが、持ち前のスピードを評価され、昨年はU―18日本代表にも選出された。

|「土台は“3つのポイント”」

石橋選手の大きな魅力として、関係者が口を揃えるのがドリブル。
いかにして、その土台は築かれたのか。
その答えは3つのポイントに隠されている。

① 原点は“公園”
石橋選手にとって、自宅から徒歩圏内の公園が“主戦場”だった。
“とにかくドリブルが好きだった”という少年が、マーカーを所狭しと並べて、ひたすらドリブルを繰り返す日々。
小学生の頃から、週に4日は通い詰めた。
時には夜1人で、また時には父・勇人さんとマンツーマンで。
「父に色々教わることもありましたし、公園での練習は楽しかったです。今(取材時:2024年12月)でも、行きますよ。学校に来ない期間は、よく練習しています。僕の原点と言える場所ですね」

② “砂走路”での特訓
神戸弘陵学園のグラウンドには、”砂走路“と呼ばれる砂を敷き詰めたエリアがある。
OBの江坂任(現・J1岡山)がJリーグに入団した際の育成費で作成したものである。
小学生で通用したスピードが、ヴィッセルJrユースではストロングポイントにはならなかった。
レベルアップのために必要であったのが、ここでの自主練だった。
「結構、“やりすぎやろ”レベルで(笑)取り組んでいました。1年生の頃は、公式戦の前日でも、3往復を20本とか。1人ではやらず、いつも3~4人で。みんながいるんで、やっぱり“負けたくないな”という気持ちを常に持っていましたね」

徐々に成果が現れる。

「はっきりしたデータはないんですけど、試合で抜けるぞっていう感覚が出てきた。あとは、周りから“速くなったぞ”って言われることが明らかに増えました。それが、自信につながりました。砂走路での練習は、本当に大きかったです」

③ 編み出した“秘技”
憧れの選手は、宇佐美貴史(G大阪)選手。最近、動画で視聴回数が多いのは、三苫薫(ブライトン)選手。
だが、プレーの真似をすることは皆無という石橋選手。
中学時代も高校時代も、壁にぶつかる度に、自分自身で考え、鍛錬を積み重ね、乗り越えてきた。

「今、自分が持っているドリブルの形も、試行錯誤して、最終的に見つけた形です。色々な選手の特徴も見ましたけど・・・」

長所をレベルアップさせるため、チームメートの協力を仰ぎながら、1対1の練習を繰り返す。その日々が、さらなる飛躍につながった。

「友達にくっついてもらって、練習して、自分で抜ける形を見つけて、それをさらに磨くという感じの毎日でした。大切なのは、体重移動とタイミングだと思います。どのタイミングで、どの方向に行くか・・・まだまだですけどね」

取材時間はおよそ1時間。その間、一つ一つ言葉を絞り出すように紡いでくれた石橋選手。

|「“湘南との縁”は大きなチャンス」

湘南入りと聞いて、個人的には、楽しみなチームとの縁だなと思った。
昨年15位に終わった湘南だが、山口智監督のもと、若手選手が大きく飛躍した1年だった。
中でも、J1リーグで初の2桁得点をマークした福田翔生(東福岡)・鈴木章斗(阪南大高)選手をはじめ畑大雅(市立船橋)・鈴木淳之介(帝京可児)選手ら、主力に高体連サッカー部出身の選手が多い。

「もちろん自分の実力次第ですが、若い選手も多いので、いいチームというか、自分自身にも合っているかなという印象です」

そんな石橋選手の1年目の目標とはー。
「“結果”です。目に見える“結果”にこだわりたい。得点とアシスト。チャンスは少ないかもしれないかもしれないですけど、結果を出して、試合に出続けたいです」

高校時代、彼のプレーを見ていると、いつも“ワクワク”させられた。
スタジアムに詰めかけた多くの観客が、その思いを共有する日を、今から心待ちにしている。

<プロフィール>
石橋 瀬凪(いしばし・せな)
2006年4月22日、兵庫県・神戸市生まれ。18歳。駒ヶ林FCで小学1年時からサッカーを始め、小学4年時からヴィッセル神戸Jrに所属。中学時代は、ヴィッセル神戸Jrユースに在籍。神戸弘陵学園では、2年時・3年時の全国高校総体、2年時の全国高校選手権に出場。最終学年では、チームのエース背番号「10」を背負い、U―18日本代表に選出された。179センチ、67キロ。右利き。

(サンテレビ 湯浅明彦)

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“この景色を目に焼き付けろ” 開けた全国への道~高校バスケ兵庫・報徳学園~

野球にサッカー、バスケットボールにラグビーなど・・・四半世紀以上、兵庫県の高校スポーツを取材してきた。
つまり、数多くのチームの“顔”、キャプテンを見てきた。

リーダーには、色んなタイプがいる。

その時々で指導者または選手がベストという選択をし、1年間組織として動いていく。
そして、競技によって時期は異なるが、夏・秋・冬、それぞれ勝負の結果が出る。

黙々とプレーで、背中で引っ張る者、言動でも行動でもリーダーシップを発揮する者・・・
どれが正解という話ではない。

2024年の報徳学園バスケット―ボール部キャプテン、宮薗遼。
私が取材する限り、間違いなく後者である。

遡ること、約1年前―。
3年生にとっては集大成の場となるウィンターカップ兵庫県予選の決勝。
県内三冠を目指す報徳と、中学時代に全国制覇を経験した選手を多数擁する育英の一戦は、ラストワンプレーまで結末がわからない白熱の展開に。
68-67。
わずか1点差で育英が、6年ぶりの王座奪還を果たした。

最近の表彰式では、男女の優勝チームがコートの中央に立ち、金テープを浴びるシーンが恒例となっている。
昨年は、育英の選手たちが、女子優勝の三田松聖の選手たちとともに、歓喜の瞬間を迎えていた。
私は、放送席で激闘の余韻に浸っていた。

その時―。
「来年これを見んようにするぞ!勝った育英を称えるぞ!」
当時2年生の宮薗遼は、コートの端で、北村優光や福本有都といった涙を流す同級生に対して叫んでいた。

「悔しくて、僕も本当は泣きたい気持ちがありました。でも、あの瞬間から僕たちの代は始まったと思ったので、この景色は目に焼き付けなければならないと。しんどい時に、絶対にモチベーションになると感じて、全員で顔上げて”ちゃんと見ろ”って、気づいたら仲間に言っていました」
そして、心に誓った。
“絶対に誰よりも努力して、この舞台に戻って優勝するー”

周囲の予想通り、キャプテンとなった宮園は、精力的に動いた。
練習中に、満面の笑みを見せることはほとんどない。
部員75人という大所帯で、一人一人と細かいコミュニケーションを取り、常に練習の開始前・終了後にミーティングを実施し、その都度、何を目指しているのかを明確にしてきた。

新人戦を制し、インターハイでは全国ベスト8入り。
それもすべてはウィンターカップへの通過点と捉え、夏場以降、細かい基礎の部分をおろそかにせず、1段階2段階と強化の度合いを上げた。

宮薗自身も、個人練習では、得意技の3Pシュートに加え、課題だったフローターシュートなどのスキルアップにも取り組んできた。

2024年11月3日、決勝。相手は、因縁の相手・育英―。
リベンジの時が、やって来た。

開始56秒、宮薗の3Pシュートが決まり、チームは一気に勢いづく。

「体の状態は6割くらいでした・・・」
実は、予選直前に、右肩を負傷(腱板炎)。初戦・明石南戦は欠場し、前日の3P成功率はゼロ。
サポートテープが欠かせない状況であった。

しかし、宮薗には、兵庫県で3年間、一番努力をしてきたという自負があった。
40分間、その思いが大きな支えになった。

決勝戦の個人成績は、10得点。
3Pシュート成功3本。

「いいんです、自分のスコアは。極端に言えば、僕は0点でもいい。この試合は、勝つことだけがすべてだったので」

64-62。
その執念は、結実した。
1年前、1点差に泣いた報徳学園が、今年は2点差で笑った。
気が付けば、“あの景色”の中心に自分がいた。

金のテープが片付けられたあと、彼に近づくと、いつも通り、表情は崩さず、きっぱり語った。
「本当にブレずに努力をしてきてよかった。バスケを通して、信念を貫き通すことを学びました!最高です」

そして、別れ際、サポーターテープを巻いたまま、ニコっと初めて笑顔を見せてくれた。

高校生活、最後の冬―。
全国の舞台で、果たして宮薗は“どんな景色”を目に焼き付けてくるのだろうか。
それが、仲間の笑顔であることを切に願う。

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【2024ドラフト裏側】 SB1位指名に涙した153㌔右腕

「二度と味わいたくない経験ですね」
そう語ったのは、日本歴代1位のホールド・ホールドポイント保持者で関西学院大出身の宮西尚生投手。
2007年11月、私は、自宅から大学の会見場まで密着取材をしていた。
当時は、大学・社会人ドラフトの時代。
1巡目候補と報道されていた宮西投手だったが、待てども待てども名前が呼ばれず。
3巡目の最後となる日本ハムの指名の瞬間、喜びというより安堵の気持ちが大きかったのを今でも覚えている。

今年のドラフト会議当日、そんな思い出を甦らせながら、神戸市北区にある神戸弘陵学園高校に出向いた。
注目の153㌔右腕・村上泰斗投手の取材である。

中学時代は、硬式野球チームで捕手としてプレー。
投手に転向したのは、高校入学後という経歴の持ち主。
2年夏の兵庫大会で滝川第二の坂井陽翔投手(現・東北楽天)と投げ合い、一気に脚光を浴びた(試合は●)。

今年の夏の兵庫大会は、優勝候補に挙げられながら3回戦敗退も重みのある直球を主体とした投球は「三振を奪える将来性豊かな投手」として、メディアに取り上げられることも多くなった。

久しぶり会った村上投手は、「お久しぶりです!」と元気よく挨拶をしてくれた。
ドラフト会議直前にも関わらず、「昨日はぐっすり眠れました」と笑顔だったが、いざ会見場に現れると、一気に緊張の表情に。

私は、いつも会見場にいるときは、チーム名読み上げのあと、苗字の頭文字を必ずイメージするが(今回は“む”)、「福岡ソフトバンク」のあと、見事なくらい、それが一致した。

その瞬間、私はずっと村上投手の表情を見ていたが、笑顔から涙に変わった。
意外だった。
「本当はずっと笑顔でいようと思っていたんです。でも、2年半の中で苦しかった時期を思い出すと、涙が止まらなくて・・・。自分でも予想外でした」

彼は、決して、鳴り物入りで高校に入学したわけではない。
球速も135㌔からの出発だった。
今年の春も、練習試合解禁初戦の報徳学園戦で実力を発揮できず、プロの夢が遠のいたと思ったこともあった。
しかし、その後、カットボールの習得や体重アップなど、もう一段階ギアを上げて、上位候補にまでたどり着いた。

1位指名―。プロ入りが現実に。しかも、パリーグのチャンピオンチームから。
様々な思いが去来するのも無理はない。

会見では「奪三振王」「藤川球児さんのような地を這うストレート」「沢村賞」など、目指すべきキーワードもたくさん出た。

岡本博公監督
「夏の大会以降は、ピッチングの量は減らし、体作りに意識を置いてきました。でも、時々プルペンに入るのを見ると、ボールの威力は“えげつない”ですよ」
と語る。

投手歴、わずか2年半。
伸びしろしか感じさせない17歳の今後の活躍が、本当に楽しみである。

帰りの道中、
「ドラフトは、本当にいい思い出になっただろうな」と感慨に浸る中、ふと気づいた。
村上投手は、2007年2月20日生まれ。
この年、小久保裕紀(現・監督)選手がチームに復帰、そして率いていたのは、王貞治監督。
その二人が同席した今回のドラフト会議で、彼がドラフト1位で指名されたのは必然だったのかもしれないと・・・。

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑬~

“初出場初優勝”―。
最近のセンバツでは、2004(平成16)年の愛媛・済美高校が達成。これが、商業高校となると・・・
1985(昭和60)年の高知・伊野商まで遡らなければなりません。

2016(平成28)年の88回大会。兵庫県代表・明石商業は春夏通じて初めての甲子園。
チームを率いる狭間善徳監督は、その偉業を“本気で”狙っていました。

初戦の相手は、サウスポー森山投手を擁する宮崎・日南学園でした。
緊張?あんまりしなかったね。冬からの練習も上手く積めたし、チームをベストの状態に仕上げられたから。それと、試合前にパッとベンチ裏を見たら、知っている顔ばっかりやもん(笑)幼なじみに、高校や大学時代の友人がズラーッと。金網に顔をくっつけるくらいの勢いやから(笑)」
これが、甲子園での初采配。さすがに緊張で硬くなるかなと思いきや、真逆だったようで・・・。
「いい意味で緊張感がなかったよ(笑)」そして、続けて「“あの時”を除いてね・・・」

“あの時”とは。
試合は、互角の勝負。明石商が8回裏、日南学園が9回表に1点ずつ取り合い、2-2の同点。
迎えた9回裏、明石商が1アウト満塁のチャンス。
「1-1からのスクイズ、あれぐらいやわ、緊張したのは」
打者・藤井選手のカウントは1ボール1ストライクとなり、迷わず狭間監督はスクイズのサインを出します。結果、見事に藤井選手は指揮官の期待に応え、サヨナラ勝利。
狭間監督が“本気で”狙う頂点に向けて、幸先のいいスタートを切りました。

2回戦の相手は、藤嶋健人(現中日)投手が注目の愛知・東邦高校でしたが、エース吉高壮(現日本体育大4年)投手が完封勝利で、ベスト8進出。

狭間監督が“本気で”目指す頂点が少し見えてきた準々決勝。相手は、京都・龍谷大平安高校でした。
「俺はもちろん、優勝はずっと頭にあったよ。だって“初出場初優勝”って、1回しかチャンスないでしょ。ただ、選手の中に、東邦に勝って、初めての甲子園でベスト8に残って、次に龍谷大平安に負けても称賛されるんじゃないかみたいな気持ちが心のどこかに生まれたように思う」
ベスト4をかけた試合は、1-1で延長戦に。ただ、延長に入るまでに明石商に目立ったバント失敗。
龍谷大平安の大胆なシフトにも惑わされ、流れをつかめませんでした。
「どんな状況でも絶対に(打球を)転がすというか、チャレンジャー精神というか、思い切ってやろうという部分が足りなかったかな
結局、延長12回の末、龍谷大平安が小川選手のサヨナラ安打で勝負あり。
狭間監督の“本気”で目標にした夢”は、幻に終わりました。
「でも、甲子園自体も学校の歴史上初めてでしょ。すべてが初めての中で、選手はよくやってくれた。称賛できる戦いでした

夏の予選では、ベスト8の壁を破れなかった時代、そして3年連続準優勝に終わった時代を乗り越え、2018(平成30)年に初優勝。今年のセンバツまで4季連続の甲子園出場を果たし、明石商は、今や県内屈指の強豪校になりました。

昨年の夏、話題を呼んだ“狭間ガッツ”。
ただ、私が取材した狭間監督は、確固たる知識を持った“野球伝道師”というイメージです。

いまだに目に焼き付いているシーンが2つ。
1つは、現在、埼玉西武に在籍する松本航(日本体育大から19年プロ入り)投手を指導する姿。
もう1つは、今年のドラフト上位候補に挙がる中森俊介(3年)投手を指導する姿。
どちらも、ブルペンのあらゆる角度から見回って、腕の角度・頭の位置・足の上げ方など、こと細かく丁寧に言葉をかけていました。
私からすると、2人とも右の本格派、ダイナミックで綺麗なフォームにしか見えないのですが、アドバイスの内容が全く違うんです。
「同じ学年の時点で比較したら、中森の方が上だと思う。でも、航(松本)は自身のフォームを瞬時に把握できる力があった。おまけに股関節も柔らかかった。スピードは中森の方が、まだまだ出るかな。当たり前ですが、みんな特徴が違うんですよ」

監督やコーチを務めた明徳義塾中・高時代に、様々な指導者に出会ったという狭間監督。疑問が生じたときには積極的に質問し、消化し、自身の指導に取り入れてきました。

「教え方って、極端に言えば“何億”とあると思う。教え方が一辺倒になると、その指導が“ハマらない”選手も出てくる。それは避けたい。でも“根気”はいるよ。あと“情熱”やね。それしかない。だから1日24時間じゃ足りないのよ(笑)あの選手はこのやり方が合うかな、この選手はこうかなって考えていたら、時間なんてあっという間。でも奥深いよ、ホンマに。この場面で変わるか!というのがあるから、高校生は。だからこそ、よくこちらが見てあげないと」

もちろん、野手も例に漏れず。打撃でのタイミングの取り方、上半身と下半身のバランス。守備では、ボールに向かう時の角度など・・・。練習グランドを所狭しと動き回り、選手の日々の変化に対応する毎日。
細かい技術の裏付けがあってこその総合力。昨年の春夏連続ベスト4の成績も、何ら不思議ではありません。
一番印象に残った出会いが、その戦いの中にありました。
昨年の夏―。当たり前に高校野球が行われていた2019年の夏―。

明石商は初の決勝進出をかけ、大阪・履正社と対決しました。
試合は初回に、6安打を集中させた履正社が4点を先制。そのまま、終始ペースを握り、8回を終わって4点リード。

すると、一人の選手に声がかかります。背番号14の百々(どど)亜佐斗(当時3年)選手。新チーム結成以降、自ら志願して三塁コーチを担当してきました。これが、センバツや夏の予選も含めて初めての公式戦出場でした。
実は、監督から直前に“代打でいくぞ”と言われていました。ただ、投手交代のタイミングもあって守備からになりました」
投手は、中森(当時2年)投手から安藤碧(当時3年)選手に。百々選手はレフトのポジションにつきました。
履正社・小深田選手の打球がいきなりレフトへ。安打でノーアウト1塁。
「自分では捕れた打球だったと思います。だから本当に悔しいんです
その後、井上広大(現阪神)選手はフォアボールで、再びベンチが動きます。マウンドには杉戸理斗(当時3年)投手が上がり、守備シフトの入れ替えで、百々選手は交代となりました。

ベンチに帰っていく百々選手。私はスタンドで何気なく見ていました。その時です。
狭間監督に呼ばれて、歩み寄っていくではありませんか。

私は作戦を伝えるため、狭間監督が選手に声をかける場面は何度も見てきました。
ただ、交代してベンチに下がった選手に、直接話をするシーンは見たことがありませんでした。

“ここからいい声を出して、また雰囲気を作ってくれ”と。さらに“最後まで諦めない、全員で戦うぞ”と声をかけて頂きました」
試合は1-7で終了。百々選手は、最後の瞬間を“定位置”の三塁コーチャーズボックスで迎えました。
「代わった直後にも、試合中にも関わらず、声をかけて頂き、嬉しかったです。監督は、本当に選手のことを第一に考えて下さる方でした。感謝しかありません」
試合出場時間、およそ4分。百々選手にとっては、生涯忘れられない4分となりました。

常々、狭間監督は話します、
「部員100人(昨年夏は111人)の人生を変えてしまう怖さがある」と。
その責任感を背負っているからこそ、日々、選手の動きをすべて把握するために時間を惜しまず、妥協をしてきませんでした。それゆえ、控え選手の起用も、声かけも瞬時に判断できるのだと。選手に本当の気持ちが伝わるのだと。
話せば話すほど涙を流す百々選手の姿を見て、明石商の本当の強さを実感しました。だからこそ、92回大会が楽しみでした。

13回に及んだこのシリーズ企画も、今回で最終回です。コラムをご覧頂き、ありがとうございました。
最後は、明石商の話を中心に紹介してきましたが、これまで22年間、高校野球では、たくさんの方々に取材をさせて頂いてきました。センバツコラム~⑤~でも書きましたが、私は高校時代、クラブ活動をしていませんでした。ですから、今まで出会った指導者の方々、全員が私の恩師です。

そして、レギュラーであっても、そうでなくとも、ベンチ入りのメンバーに選ばれていても、そうでなくとも、関係ありません。毎日、懸命に鍛錬に励んできた選手の皆さんを心から尊敬しています。
その思いは今後も変わりません。

スケジュールが順調であれば、今日、92回大会の決勝戦が行われる予定でした。
先行きが見えない情勢ですが、一日も早く世界中の人々に平和な日常が戻るよう願っています。
そして、もちろん、甲子園球場に球音が戻ってくることも・・・。

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑫~

誰がどう見ても「エースで四番でキャプテン」がチームの軸。
2008(平成20)年、第80回大会。兵庫代表・東洋大姫路高校は、佐藤翔太投手が絶対的な柱でした。
チームの特集企画のサポートをすることになった私は、担当記者と相当悩みました。
当然、佐藤投手は紹介する、ただ、それは誰でも考えること。藤井選手や亀井選手といった主力選手をクローズアップしようか、その他の選手にするか・・・。
地元の放送局ならではの「切り口」を探せど探せど、中々見つかりませんでした。

学校に到着するや否や、堀口雅司(当時)監督の元へ。すると、こんな提案が。
「松葉を取り上げてもらうのはどうですか?」
松葉貴大選手―。初めて聞いた名前でした。

「玄人好みする選手でね、派手さはないんですけど、打線の“つなぎ役”として本当に貴重な選手。
普段からコツコツ練習する子で、頼りになるんですよ。それに父親が・・・」

聞けば、松葉選手の父・恭功さんは、同校のOBで、1986(昭和61)年の夏の選手権(68回大会)に出場。全国ベスト8の一員で、長谷川滋利さん(元マリナーズほか)とチームメートだったとのこと。

間髪空けず、一発回答でした。

松葉選手は、入学当時は投手。1年生の秋には背番号1を着けるなど、将来を期待された選手でした。しかし、その後、左ヒジをはくり骨折。一度は復帰するも、再び左ヒジを痛めて投手を断念し、外野手に転向。毎朝の書写山の走り込みなど、指揮官が認める懸命の努力で、2年秋の兵庫県大会から「2番ライト」として定着。

チームは、23年ぶりとなる近畿秋季大会優勝。その中で、松葉選手は、チーム最多の10犠打を記録しました。チームにとって5年ぶりのセンバツでも、“つなぎ役”として大きな役割を担っていました。

「佐藤を中心としたクリーンアップに、いかに得点圏で回すかということが僕の仕事です。もし、バントのサインが出たら、一回で決めます。そして、(全国ベスト8の)父を超えたいです
確固たる決意を持って、挑んだ大会でした。

大黒柱・佐藤投手の好投もあって、チームは5年ぶりのベスト4。松葉選手は、全試合「2番ライト」で先発出場、打率222.ながら、多くの得点に絡み、目標だった父の記録も超えました。

迎えた準決勝―。相手は、沖縄尚学高校。東浜巨(現ソフトバンク)、嶺井博希(現DeNA)のバッテリーを中心に、1999(平成11)年の71回大会以来となる優勝を目指していました。

私は、準決勝の前日、広島市民球場で、そのシーズン初の「サンテレビボックス席」実況中継を担当。阪神が開幕5連勝を決めた試合でした。試合当日は、「ボックス席」のベンチリポート担当で、甲子園に行くことは出来ませんでした。
宿泊しているホテルでひとまず観戦。初回、松葉選手は第1打席で、いきなりセーフティバントを見せます。惜しくも、東浜投手の好フィルディングに阻まれアウトになりますが、その直後、3番・亀井選手と4番・佐藤投手の連打で、幸先よく先制。7回にも1点を追加して東洋大姫路が2-0とリード。私は、阪神の練習取材のため、球場へ移動しました。
そして、記者席に到着。ふと画面を見ると・・・。2-4、東洋大姫路が逆転を許していました。
丁度、リプレー映像が流れていて、嶺井選手の逆転タイムリー安打。打球は、無情にも、ライトの松葉選手の足下に。準決勝にふさわしい好ゲームでしたが、東洋大姫路のセンバツ初の決勝進出は夢に終わりました。

この年、センバツ以降、私は東洋大姫路の取材をする機会はありませんでした。
当然、松葉選手の記憶は、徐々に薄れていきました。

それから2年後の春―。新聞記事に「プロ注目の松葉 好投」の見出しが。
センバツ取材をともにした記者のもとへ駆け寄り、「松葉って、あの松葉くんやん!」

松葉選手は体育教師を目指して、高校卒業後、大阪体育大学へ進学。
大学入学後、大きな転機が・・・。

「当時、関西国際大学にサウスポーの松永昴大(現ロッテ)投手がいて、その対策にと、監督さんが左投手のバッティングピッチャーを探していたんです。そして、僕が選ばれました。打撃練習で投げているうちに、先輩の“松葉はいいフォームで打ちづらい”という声が監督さんに届いたみたいで」

偶然の“投手復帰”。すぐさま、1年生の秋には公式戦で登板。いきなり、6試合に投げ、4勝1敗。防御率は0.38と、素晴らしい成績を残します。

「もちろん、またヒジを痛めるかもという不安はありました。でも、最後は自分自身が一番やりたいポジションである投手で勝負して、大学生活を終われたらいいなと思ったので

地元の姫路に帰って、馴染みの治療院で定期的なケアもしながら、ランニングや体幹トレーニングなども怠りませんでした。気が付けば、身長は5㎝伸びて、体重も5キロ増えていました。
球速は最速149キロまでアップ。大学4年間で通算31勝、MVP2回受賞、全国大会にも出場しました。
そして、2012(平成24)年のドラフト会議で、オリックスから堂々たる1位指名を受けました。

「高校時代はプロ野球選手になるなんて、夢にも思いませんでした。ヒジのケガで、“別のスポーツをした方がいい”と言われたこともありましたし、もう野球を諦めなければならないとさえ思いましたから」

高校時代から取材をしてきた私にとって、松葉投手は「努力は裏切らない」ということを教えてくれた特別な存在です。

ただ、プロ入り後、一時は侍ジャパンに選ばれるなど、順調に見えたプロ野球人生でしたが、近年は不振にあえいでいます。
昨年は、オリックスから中日へトレードで移籍するも、新天地の一軍では1試合のみの登板。
プロ7年目にして、初めて0勝に終わったシーズンでした。

かつて「プロでは苦労することが多いと思います。長く野球するためには、その苦労に自分自身がどれだけ耐えられるか。また、それをステップにして、バネにしてどれだけ“成長”できるか、だと思います
と語った松葉投手。

今季は二軍キャンプスタート、オープン戦でも登板はなく、一軍昇格に向けて、まさに鍛錬の日々が続いています。

無名の高校時代、野球さえ諦めかけた日々・・・、いくつもの試練を乗り越えてきました。
まだ、29歳、“成長”するには、十分な程、時間が残されています。

努力の先に「希望の光 みちわたり」(東洋大姫路 校歌の一部)と信じて・・・。

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑪~

兵庫県代表のペナントを初めて買ったのは、「育英高校」でした。
1990(平成2)年の夏。
エース戎信行(元オリックス・ヤクルト)投手の奮闘ぶりを見て、感動したからです。
それは、全国制覇から遡ること、3年前でした。
「熱闘甲子園」の育英―秋田経法大附(現・明桜)の試合は、ビデオが擦り切れるほど何度も見ました。
試合の途中、右ひじに痛みを感じて自らマウンドを降り、リリーフの森田投手をベンチから応援。
延長の末、育英はサヨナラ負け。試合後、号泣する森田投手の肩を抱きかかえ、球場を後にする戎投手。
試合後のインタビューで「ずっと寮生活だったので親孝行したいです」と笑顔で話した姿、いまだに目に焼き付いています。

「いやあ、名前はもちろん知っていましたけど・・・。入学するまで、全国制覇をしたチームとか詳しくは知らなかったんですよ
そう話すのは、かつて育英のエースとしてセンバツに出場した・若竹竜士さん(元阪神投手、現阪神一軍サブマネージャー)。
「最初に練習を見学したチームが育英でした。雰囲気を見て、このチームで甲子園に行くとすぐに決めたんです

若竹さんは、高校1年時から試合に出場していましたが、2年生(2004年)の秋、新チーム結成後から急成長。初めて背番号1を背負って、兵庫県秋季大会を迎えます。
初戦、いきなり東洋大姫路と対戦。先発の若竹投手の力投もあり、6-3で勝利。
そして、2回戦の相手が報徳学園。場所は高砂球場。報徳学園は、この年の夏、甲子園に出場。
プロ注目左腕・片山博視(のちに東北楽天に入団)投手を擁して、夏春続けての甲子園を目指していました。

「そりゃ、思いましたよ。なんで、いきなり東洋大姫路、報徳やねん、と(笑)でも対戦が決まったらやるしかない、それだけでした」

のちにプロに進むことになる二人の投げ合い(ともに完投)は、予想外の展開に。報徳学園・片山投手が制球を乱し、序盤から小刻みに得点を重ねた育英が7-1で勝利。試合が大きく動いたのは、1-1の同点で迎えた2回。勝ち越し本塁打を打ったのは若竹投手でした。

「高校時代、公式戦で打った唯一の本塁打です。だって、練習試合を含めても、通算2本ですから(笑)
時々、本塁打を打った選手が言うじゃないですか、“感触はあまりありませんでした”って。まさにその表現がピッタリ。気づいたらスタンドに入っていたんですよ

これで気をよくした若竹投手は、本人曰く「知らない間」に、球速がグングン上がり、最速142㌔を計測。

「多分、いくつか自分の野球人生を変えた試合ってあると思うんですけど、間違いなくこの試合はその一つです。片山くんに投げ勝って、自信になりました」

その後、育英は兵庫県で準優勝、近畿大会でも準優勝で5年ぶりのセンバツ切符を手にします。

2005(平成17)年、第77回大会。育英の初戦の相手は愛知・東邦。
プロ注目の右腕・木下達生(のちに日本ハムに入団)投手との直接対決は、1回戦屈指の好カードと言われていました。
「投手の木下くんもそうですけど、確かチーム打率が全チームの中で、NO1だったんですよ(公式戦のチーム打率、東邦は425.で1位)。県大会の時と同じ気持ちになりました、またかって。でも、まあ、どこかで戦わないといけないんだからと、すぐに気持ちは切り替わりましたけどね」

開会式の前には、柳ヶ浦・山口俊(現・ブルージェイズ)投手と記念撮影するなど、リラックスしていた若竹投手。調整も順調で、大会4日目の初戦に挑みました。

初回、いきなり投球で観客を湧かせます。
「立ち上がりって、あんまり覚えていないんですよ。緊張しすぎて(笑)でも、僕のストレートで、スタンドが“ウォー”となったのは記憶にあります
直球は最速145キロを記録していました。

試合は予想通りの投手戦、何と0-0で延長戦へ。
実は、試合の中盤で“見えないアクシデント”が起こっていました。

「6回くらいですかね、一塁にけん制する時にプレートを外すでしょ。その時に、右足のふくらはぎがつってしまいました。それからはストレートもスピードが落ちて苦しかった。頼むから、1点取ってくれと祈っていました(笑)」

しかし、思いは通じず、延長10回の末、サヨナラ負け。スコアは0-1でした。
「最後は、スタミナ切れでした。完全に力負けだと思いました。だから、涙も出なかったんです。もちろん、土も持って帰りませんでした」

92回を数えるセンバツの中で、兵庫県代表が0-1で負けた試合は10試合あります。
その中で、延長でのサヨナラ負けというのは、長い歴史でもこの試合だけです(夏は第19回大会、中京商―明石中が延長25回で決着)。
「そうなんですか?それは初めて知りました(笑)何でも歴史に残るのは嬉しいですね」

若竹さんは、育英高校を卒業後、阪神に入団(高校生ドラフト3巡目)。一軍でも10試合に登板しました。
北海道日本ハムにトレードで移籍した後、2013年に退団。
2014年から2018年までは、社会人チームの三菱重工神戸・高砂で現役を続けました。
昨年、阪神に復帰。アカデミーコーチを1年務めた後、今年から一軍のサブマネージャーとして忙しい毎日を送っています。

そんな中、飛び込んできた“センバツ中止”の一報。
「もちろん、この世の中の状況を考えると、中止決定に関して何も言えません。でも、選手はもちろん、保護者の方々、学校関係者の皆さんも本当に楽しみにされていたと思うんです。だから、言葉が見つからないというか、辛いですよね。“夏に向けて頑張ってください”と言うこと自体は簡単ですけど・・・。気持ちの切り替えもすぐにというのは難しいかもしれません。でも、“今出来ること”と“今すべきこと”を、一日ずつ考えて、野球と向き合ってもらえたらと思いますね

母校・育英の校歌には、
「花の色」「香に匂う」「春の園」と春を連想させるフレーズがたくさんあります。
若竹さんは、「本当の春」が92回大会の高校球児たちに、いずれ必ず訪れると信じています。

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑩~

「いつもテレビ見てますよ」
いまだに、“笑顔”で語ってくれた表情が目に焼き付いています。

それは、2000(平成12)年の秋季近畿高校野球大会1回戦でした。翌年のセンバツをかけた大切な大会。
この日の会場は、甲子園球場。兵庫県代表が1日で3校登場するとあって、ワクワクした気持ちで取材に行きました。第1試合から、
神戸国際大附―滋賀・近江、神港学園―和歌山・南部、姫路工―市和歌山商(現・市和歌山)の3試合。

冒頭の声を聞いたのは、第1試合が終わって、取材の輪が解けた直後でした。
当時、まだアナウンサーとして、3年目。「熱血!タイガース党」がスタートして2シーズン目。
いきなりで、ビックリして、でもメチャクチャ嬉しくて・・・。
「えっ、あ、ありがとう。甲子園出られるよう頑張ってね。応援してるわ!」
一瞬でその選手のファンになりました。

その選手とは、神戸国際大附の坂口智隆選手。この時、丸刈りの高校1年生、16歳。背番号「1」のエースでした。チームとして、初の近畿大会。土壇場9回に逆転して、初戦突破。当時の地元紙には「見えた初の甲子園」とあります。

その年の秋季兵庫大会でも、準々決勝の三原(現・淡路三原)戦でノーヒットノーランを達成するなど、
県内注目の選手・・・だったようですが、勉強不足でした。

神戸国際大附は、上記の近畿大会でベスト4。翌春、創部以来初めての甲子園出場が決まりました。

2001(平成13)年、第73回大会。21世紀枠が新たに設けられた大会。21世紀初の大会。
坂口選手はエースとして、センバツの舞台に挑みました。

山梨・市川との1回戦。3回表に神戸国際大附が2点を先制。“エース坂口”も7回まで相手打線を1点に抑え、2-1でリード。初出場で初勝利が見えてきた8回裏に試練が待ち受けていました。

市川の先頭バッターは、2番の村松選手。二塁打で出塁して、ノーアウト2塁。
続く3番の名取選手は送りバント、打球は坂口投手の目の前に。
捕球後、反時計回りに体を回転させ、三塁へ送球・・・まではよかったのですが、
大きく逸れて、悪送球となり同点。その後、2本の安打で逆転を許し、マウンドを先輩の小野投手に譲ります。

「甲子園?いっぱいお客さんも入っていて(21000人)楽しかったですけど、魔物が住んでいました(笑)
あの8回です。悪送球の瞬間、魔物と目が合いました(笑)」

結局、神戸国際大附は初陣を勝利で飾ることはできませんでした。

私はテレビ観戦でしたが、坂口選手の“笑顔”がとても印象に残っています。ただ笑っているんではないんです、とにかく「野球が大好きなんや!そして楽しいんや!」という気持ちが伝わってきたんです。それは、初対面の時と、全く変わりませんでした。

「僕のモットーは、“全力プレー”“全力疾走”そして、“笑顔”です!」
新庄剛志(阪神、日本ハムなどで活躍)さんに憧れたという少年時代。
理由は「どんなプレーをしても絵になる選手だったから」

私は高校時代、坂口選手の試合を1試合だけ実況しました。
この年の夏、兵庫大会の準決勝、東洋大姫路戦です。
私にとって、前年夏の「関西学院高等部―津名」戦に次いで、人生2度目の高校野球中継でした。
試合は2-1で東洋大姫路が勝利し、春夏連続の甲子園はなりませんでした。

翌年のセンバツも逃し、残るチャンスは1度。2002年の夏。
準決勝の市立尼崎戦、9回に5点差を逆転するという劇的なサヨナラ勝利で、初の頂点まで1勝。
しかし、決勝で、この年のセンバツで優勝、のちにプロ入りする選手を2人(現ロッテ大谷投手、元日本ハム尾崎選手)擁する報徳学園の前に、最後は力尽きました。

2003年にドラフト1位で大阪近鉄バファローズに入団。球団合併後、2005年からオリックスへ。
その後、自由契約となり2016年から東京ヤクルトへ。16歳の少年は、ベテランの域に近づく35歳に。今年で、プロ入り18年目の春を迎えました。

高校1年生の秋に初めて出会って以来、20年近く、毎年のように取材をしてきました。
球場で会えば、必ずモットーの“笑顔”を見せてくれます。

2009年7月7日、自身の誕生日に本塁打を放って、私がヒーローインタビュー。
2016年3月30日、ヤクルト移籍後に私が初めて見た試合で、“全力プレー”の三塁打、気迫のヘッドスライディング。
2018年7月13日、プラスワンでオールスターゲームに選出され、かつての本拠地・京セラドーム大阪での大歓声。

数え上げれば、思い出はキリがありません。

昨年はケガもあって、不本意な成績に終わり、今年にかける思いは特別です。
「見とってください!」
今年のキャンプでも“笑顔”で語ってくれました。

そんな坂口選手に、母校の校歌の一節を送ります。
「行く手にはあふれる希望」あるのみ!

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑨~

「ビールいかがですかー」
初日は恥ずかしかったセリフも、大会が進むにつれ、自分自身でも違和感なく大きな声で言えるようになっていました。

センバツコラム~その⑧~で記しましたが、アルバイト代は二の次。色々な方にも出会いました。

時には、取材通路で、たくさんの報道関係者に囲まれるPL学園の中村監督。
時には、トイレで、連日の中継を担当する憧れの実況アナウンサー。
時には、スタンドで、私を冷やかしに来た高校時代の友人。

そして、時にはこんなことも。
あるチームのアルプススタンドをウロウロしていると、
「ちょっと、お兄ちゃん、こっち来て」
40代くらいの男性だったと思います。
“お、ビールでも買ってくれるのかな”と思って、急いで行くと
「試合中、ずっと横におって」
「え??」
「ビールなんぼでも買ったるから、一緒に応援してくれ!」
「は、はい!ありがとうございます!」
こうして、私は、その試合、ずっとその男性の側で応援していました、何度もビール倉庫と往復しながら。
その1試合だけで80本程のビールが、“ただ座っただけ”なのに売れました。
アルバイト初心者の私が、1試合でこれだけのビールを売るなんてあり得ないことでした。ただただ、感謝あるのみでした。アルバイトの責任者もビックリしていました(笑)
残念だったのは、このチームが初戦で敗れてしまったこと。
まさに「一期一会」の出会いでした。

66回大会は試合観戦よりもスタンドの空気を味わうことが多かったので、試合そのものはあまりじっくり見ていません。
しかし、1シーンだけ、強烈に印象に残っているものがあります。
それは、準々決勝第2試合、智辯和歌山―愛媛・宇和島東戦。
それまで4万人を超えた試合が1試合と比較的静かなセンバツでしたが、この日は土曜日。
大阪・PL学園をはじめ、近畿勢が4校登場するとあって、スタンドはあっという間に埋まっていきました。この試合で大会2度目の4万人超え。アルバイト中も、通路がお客さんでいっぱいで、ちょっと歩きづらい状況でした。
橋本将(のちにロッテ入団)捕手を中心とした宇和島東は優勝候補の一角にも挙げられていました。
対する智弁和歌山は、前年の夏に甲子園初勝利。ベスト8自体もこの大会が初めてでした。

試合は8回終了時、4-0で宇和島東リード。私は、その時、バックネット裏付近にいました。
「宇和島東がこのまま勝つんやろな」
何の疑いもなく、ビールを売っていました。

しかし、9回表、智弁和歌山が1アウトから反撃に出ます。
1点を返して、なおも2アウト満塁。押し出しのフォアボールで2点差。
さらに2アウト満塁、バッター植中選手のカウントは3ボール。
宇和島東・上甲監督は、この場面で、投手を鎌田投手から松瀬投手に代えます。
そして、1ストライクを取った後の5球目でした。

今、さも見ていたかのように書いていますが、当時の私は何も知りません。
でも、偶然、その5球目だけは見ていました。

甲子園は、この日も快晴でした。
まぶしい陽光を植中選手の打球が切り裂いていきました。
あっという間に右中間へ。走者一掃の逆転タイムリー3ベース!

いまだに、9回表に「5」と刻まれたあの日のスコアボード、目に焼き付いています。

宇和島東もその裏、意地を見せ同点に追いついたのはさすがですが、延長10回表、智弁和歌山が勝ち越し、そのまま試合終了。初のベスト4進出を決めました。
智弁和歌山・高嶋仁前監督も勇退会見で「最も思い出に残る一戦」とおっしゃったこの試合。
私にとっても忘れられない一戦です。

その後、智弁和歌山は準決勝でPL学園、決勝で茨城・常総学院を破り、春夏通じての初優勝。
和歌山県勢として、1979(昭和54)年の箕島以来、15年ぶりのVとなりました。

さすがに最後の瞬間は、アルバイトも中断してじっくり見ました。帽子のCマークが輝いて見えました。
感激しました。

実は・・・ペナント収集は、高校卒業後に一区切りと密かに決意した・・・はずでしたが、優勝を間近で見てあっさり翻意。
10日間のアルバイトを完走した自分自身へのご褒美として、1枚だけ買いました。
チームはもちろん

です。

この年、智弁和歌山が優勝していなかったら、私のペナント収集の歴史も変わっていたかもしれません(笑)


大学時代もペナント収集は続きました

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑧~

センバツコラム~その⑦~で述べたように、3季連続で甲子園観戦を我慢したおかげで(?)、この年の春、大学に合格しました。
1994(平成6)年、第66回大会は、私がこれまでで唯一、10日間甲子園に通い詰めた大会です。
ただし、観戦ではありません。売り子のアルバイトとしてです。
「とにかく高校野球を毎日見たい・・・」。ただ、それだけでした。
しかし、毎日行くだけの予算はありません。もう四半世紀以上前の話ですから、正直に申し上げますと、
アルバイトなら交通費は出る、しかも高校野球の空気をずっと味わえる、最高やん、と。
アルバイト代は、二の次。中学時代からの親友と、人生初めての“挑戦”でした。

「じゃあ、行ってらっしゃい」
お店の責任者の一言で、私にとっての“特別なセンバツ”が始まりました。
センバツコラム~その⑥~で述べた1992年センバツ以来の甲子園。あの時は雨・雨・雨でしたが、この年は、開会式から晴天に恵まれました。
ただ、アルバイトは予想以上に難しくて・・・、特に初日!
私が担当したのは、主にビールと日本酒。
当時19歳、ビールなんて飲んだことがありません。すなわち、ビール缶を開けたこともありません。お酒をついだこともありません。まず、ビールの泡をいかに少なくつぐか。いきなり本番ですから、何回も失敗しました。時々「泡、多いやん」と怒られながら。
そうそう、持っていたケースごと思い切り引っ繰り返して、中に入っていた日本酒の瓶を全部割ったこともありました。幸い、お客さんにケガがなくてよかったですけど。
でも、楽しかったなあ。
通路を歩いていても、食堂で昼食を取っていても、もちろんスタンドを歩いていても、
至るところで高校野球が身近に感じられるのですから。
親友は途中で挫折していましたけど(笑)あっという間に10日間が過ぎました。

ただ、初日だけは、さすがにグッタリ疲れて、親友と相談して、第3試合だけアルバイトを早めに切り上げて観戦することに。当時無料のライトスタンド。石川・金沢―島根・江の川(現・石見智翠館)の試合。
2人とも何気なく、ボーっと試合を見ていました。
9回2アウト、3-0で金沢がリード。マウンドには金沢のエース、中野真博投手。
江の川、最後のバッターはショートゴロ。1時間28分で試合終了。
「早い試合やったね」と話した瞬間、15000人の観衆から拍手喝采。
「うん?なんかあったん?」
スコアボードをふと見ると、江の川「安打0」。
「えっ?」
「ノーヒットノーラン!?すごいやん!」

スマホがなかった時代でした。
今だったら、写真を相当撮っていたでしょうね。
でも、当時は違います。ただただ、拍手を送っていました。

スマホがなかった時代でした。
今だったら、帰りの阪神電車でずっと携帯電話とにらめっこだったでしょうね。
金沢・中野投手のコメントが早く知りたくて。
でも当時は違います。親友と興奮冷めやらぬ状態で熱く語り合っていました。

スマホがなかった時代でした。
今だったら、すぐに分かっていたでしょうね。
でも当時は違います。夜のハイライト番組を見て、驚愕しました。
まさか、大会史上2度目の「完全試合」だったとは・・・。

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑦~

1993(平成5)年、春。私は野球ばかり見ていたおかげで(?)、見事に大学受験に失敗しました。予備校に1年間通うことが決まり、さすがにこの時ばかりは「甲子園観戦禁止令」が我が家で出されました。ちなみに、前年の夏も行けず、もちろんこの年の夏も。つまり、3季連続で高校野球観戦から遠ざかることになりました。
第65回大会は、ハイライト番組も含めて、自宅でもおおっぴらに見ることはできず。精神的に、ホント、キツかったです。
ただ、決勝戦だけはどうしても居ても立ってもいられず・・・、こっそりバレないようにテレビ観戦。
すると、驚きの事実が!

大阪・上宮と埼玉・大宮東の対戦、上宮はセンバツコラム~その①~でも記した4年前の雪辱を期す戦いでもありました。
初回、上宮がノーアウト一塁のチャンスで2番バッターが送りバント。相手のミスもあって犠打エラーで出塁。
うん?この2番バッター、どこかで見覚えがあるような・・・。
名前・・・岡田成司?えっ?あの岡田くん?ショート?まさか!そんなわけ・・・ないか・・・。
もう一回、顔がアップで写らないかな・・・。守備で・・・、あ、写った!
えっ?やっぱり、岡田くんやん!もう、確信しました。
何と、上宮の「2番ショート岡田」選手は、私が少年野球時代に一緒のチームでプレーした1学年後輩の「岡田くん」だったのです!


本人提供

衝撃の事実でした。
メッチャすごいやん、岡田くん!上宮でレギュラーでショートで、しかもセンバツの決勝って!
まあ、決勝まで気付かないほど、私はこの大会、じっくり見られなかったという裏返しでもありますが。

1学年後輩の岡田くんは、少年野球の頃から、それはそれは、センスあふれる選手でした。守備がとにかく上手く、後輩ながら私の学年のチームでも当然のようにショートを守っていました。ボールを取ってから、とにかく速かった!私は、主にファーストを守っていたので、よく分かるんです。流れるようなというか、動きが本当にスムーズで、送球も抜群の安定感でした。身長が伸びて顔はそのまま(笑)みたいな雰囲気で、決勝でも難しいゴロを簡単にさばくわけです、少年時代と変わらず。
9回も岡田くんがゴロを2つきっちりアウトにして、悲願の初優勝まであと1つ。牧野投手がその後、ピンチを招きますが、最後のバッターはセカンドライナー。岡田くんをはじめ、全員がマウンドに集まり喜びを分かち合います。

この日まで、私は大好きな高校野球をほとんど見られず、モヤモヤした気持ちでいっぱいでした。
しかし、懸命にプレーする岡田くんを見て、「よっしゃ、俺も頑張らないと」と新たな気持ちになりました。
岡田くんのおかげで1年間、受験勉強を頑張ろうという決意も生まれました。

1年後、私は大学に合格しました。今でも、岡田くんの存在に気付いた65回大会が、厳しい予備校生活の原点だったと思っています。

それから約20年後。何と、その「岡田くん」とひょんなことから再会しました。
場所は甲子園球場。岡田くんは仕事の関係で偶然、訪れていたそうです。お互いに目が合った瞬間、5秒ほど???という空気が流れ、「岡田?」「湯浅くん?」「えーホンマに!!!」と懐かしいやらビックリやらで、思わず大声を出してしまいました。

何せ私の記憶では、中学時代に近くの本屋で話をしたのが最後。あとはテレビ中継で見て以来。
岡田くんは岡田くんで、私をテレビで見て「“少年野球の時の湯浅くん”と似ているけど、まさかなあ」とずっと思っていたそうです。思い出話や近況報告など話は尽きませんでした。

あの65回大会、決して上宮は61回大会のような前評判の高さはありませんでした。のちにプロ野球に進む選手もいませんでした。一方、大会自体を振り返ると、京都・東山には岡島秀樹(のち巨人に入団)投手、愛媛・宇和島東には平井正史(のちオリックスに入団)投手、大宮東には平尾博嗣(のち阪神に入団)選手など錚々(そうそう)たる顔触れが揃っていました。岡田くん自身も、まさか頂点に立てるとは思っていなかったそうです。
「だって、初戦がいきなり優勝候補の神奈川・横浜高(元中日・阪神の高橋光信選手を含め、のちに5人がプロ入り)ですよ。ウチは前年の秋、大阪では優勝しましたが、近畿大会ではベスト8止まり。しかも東山にコールド負けしての、です。俺らは弱いんやと思っていましたから」。

しかし、その初戦、上宮は横浜に延長の末、サヨナラ勝ち(サヨナラ安打は黒川洋行主将。息子・史陽さんは昨年秋にドラフト2位で楽天に入団)し、一気に勢いに乗ります。

「初戦が大きかったですね、今振り返ってもやっぱり。それに、優勝候補が続々と初戦で姿を消していくわけですよ。宇和島東や、近畿で僕らにコールドで勝った東山もですよ。全国はホンマにすごいなとみんなで話していたんです。僕らの3回戦(2戦目)が鹿児島実業、全国の常連校ですよね。この強豪に自分たちがどれくらい戦えるか、もし互角に戦えたらひょっとするぞ、と」。

3回戦、上宮は11-1で鹿児島実に大勝します。ベスト8のうち、近畿勢は滋賀・八幡商と上宮のみ。

「鹿実に勝った時に、僕自身、ひょっとしたら優勝できるかもと初めて思いましたね。強いと思っていた他のチームもどんどん負けていくし、チャンスやと」。
その後、準々決勝は福岡・東筑紫学園に3-0で、準決勝は北海道・駒大岩見沢に11-4で勝利。
部員38人はまさに一丸となって、4年ぶりの決勝へー。
「4年前の雪辱?もちろん、ミーティングでもそういう話はありましたが、あんまり意識せず、とにかく勝つことだけに集中していました」。

冒頭にも記した通り、「岡田くん」は初回にバントを決め、エラーを誘い、その後先制のホームを踏んでいます。この試合、ヒットこそなかったものの、攻守にわたって初優勝に大きく貢献しました。


本人提供

そういえば、昨年、ドラフト会議前に村西良太(オリックス入団)投手の取材で近畿大学に伺いました。チームを率いるのは、田中秀昌監督。1993年当時の上宮の監督です。
私が「岡田くん」の1学年先輩であることを告げると「おー、そうかそうか。岡田、もちろん覚えているよ。とにかく、あいつはね、バントが上手かった。守備も上手くてね、いい選手でしたよ」と村西投手の取材そっちのけで(笑)盛り上がってしまいました(笑)

「湯浅くんは決勝だけ見たん?それはアカン。僕、決勝だけノーヒットなんですよ。それ以外は打っていたのに(笑)バントは自信がありました。だって、メチャクチャ練習しましたもん。でも、時には打たせてほしいこともありましたけどね(笑)」

調べてみると、5試合で19打数7安打、打率は368.!確かに、素晴らしい成績です!

「このチームから僕の野球が始まったんです」
センバツコラム~その①~にある写真のチームが、私の野球の原点。
思いは岡田くんも同じでした。
縁あって、再会できて、本当に嬉しかったです。普段は、中々会うことはできませんが、
またゆっくり食事でもしてみたいですね。

初Vから27年・・・。
いまだに、優勝直後のマウンドで満面の笑みを見せる「岡田くん」の姿が目に焼き付いています。

ちなみに。
少年野球の時の私の印象を聞くと・・・、
「湯浅くんは、ファーストだったよね。“メッチャ元気な人”というイメージです。それと、エラーもよくしたじゃないですか(笑)だから、僕が上の学年のチームでプレーしていても、エラーを怖がらなくていいというか(笑)湯浅くんにはいつも勇気づけられました、エラーしても大丈夫やって(笑)だから、湯浅くんのこと、覚えているんですよ!」

高校で野球をせず、正解でした・・・(苦笑)

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