3900円

買うつもりは全くなかった。
だって知ってる曲ばっかりやもん!

世に出たのは、11月3日。
この日、先輩からの一言がなければ・・。
「お前、買ったん?」
高校サッカー準決勝に向かう車中、この言葉がグルグル頭を駆け巡った。
どうしよう・・・。
夜、テレビを見た。
音楽番組、知ってる曲が流れてくる。
久しぶりに聞いた。
ツイッターではなく、本当につぶやいた。
「やっぱええわ」
でも踏ん切りがつかない。

11月6日高校サッカー決勝前日、とうとうCDショップに立ち寄る。
あるか?
あった!
手に取る。
うん?通常版。
あれ、確か初回生産"限定版"があるはずなのに・・・。
あ、売り切れてる。
サッカー資料作成の際、BGMにしようか迷ったが、止めた。
結局、「My song Your song」がBGMに。
「気まぐれロマンティック」10回は聞いた。
う~ん、ノリノリ。仕事はかどる。
よし、もう決めた。
初回生産"限定版"があったら買おう。

11月8日月曜日。三宮のタワーレコードへいざ出陣!
ドキドキ。ミント神戸6F到着。
ポスターが目に飛び込んできた。
あった!あった!!
初回生産"限定版"!
DVD付きで"通常版"より少し高い?これだけ迷ったから、値段は関係ない。
というわけで、いきものがかりのベスト盤「いきものばかり」
めでたく購入しました。

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寒いけど温かい

"仙台めっちゃ寒いです"
03
仙台入りの前日、先乗りしている先輩ディレクターから頂戴したメールである程度想像できた。
だが、空港に着いた瞬間、想像を超えていることに気付いた。
仙台は寒かった。
正確に言えば、寒暖差が大きかった。
昼間、Kスタ宮城の三塁側は日当たりが非常によく、半袖でも汗ばむ程。
だが、夜になると、気温は一変する。

今回担当のリポーター席は、風の通りがよく(?)、
陽が陰ると、かなり寒い。
もちろん、事前に打てる手は打った。
押入にしまってあったパッチを久しぶりに取り出し、仙台入りしてから着用。
同じく、セーターも球場に持参。
いざという時には、見栄えも関係ない。
スーツの上から・・・の覚悟。

準備万端、いざ放送へ!という午後6時、放送開始直前だった。
「風邪引くぞ~」
声の主は阪神・下柳投手。
ビックリして僕と横にいる他局のアナウンサーと目が合うと、ニタッ!
言葉に隠された優しさが何とも嬉しかった。

03
午後7時、ついに我慢の限界。
満を持して、セーター装着!
ふと気が付けば、他局のリポーターの方々は、ダウンジャケットを羽織っていた。

午後8時過ぎ、「寒いやろ。はいよ」
何と、山脇コーチからホットコーヒーの差し入れ。
う~、あ~り~が~とう~ご~ざ~い~ますう。

午後9時49分、阪神9回に逆転し勝利。
言うことなし。

寒さの中に人の温かさを感じた今回の遠征。
金本選手のヒーローインタビューの言葉と同じ思い・・・、
「僕は仙台が好きです!」

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取材メモ

取材メモの保管はあまりキッチリしているタイプではない。
でも、彼の関連メモはなぜかずっと手元にある。
「2002年11月7日(木)滝川第二高校 黒田監督」
初めて、岡崎慎司という名前を書いた日だ。

紙をめくってみる。
出てきた。
「16 岡崎慎司(弟・1年)」
でも、黒田監督に彼の事を聞いた記憶、メモを取った記憶はまるでない。
何と書いてるのか・・・。
「(黒田)経験のなさが出ている。決定力は相当高い。」
「(本人)兄とは小・中とずっと一緒のチームでプレーしてきた。
"何が何でも点を取るんだ"という気持ちの出たプレーはいつも勉強になる。」

う~ん、取材した記憶が全くない。
当時、背番号「16」の1年生FWは、その3日後の選手権兵庫大会決勝(サンテレビで中継)にも出場していない。そのせいか、県大会ではほとんど印象に残っていない。

当時のチームは絶対的なFWは不在だった。黒田監督も試合ごとにいろいろ変えていたのは覚えている。
4・5番手と見られていた彼とじっくり話をしたのは、全国大会に入ってからだった。

再び、取材メモ。
「2003.1。2 2回戦 滝川第二VS鳴門」
これは覚えている。確か、練習帰りのバスの中で話をした時のことだ。
「23岡崎(慎) 少し疲れている。体、全体的に重い。精神的に参っている」
ふむ、1年生だもんな。
「爆風スランプ"ランナー" 試合でも走りまくります」
??こんなん聞いたっけ?あ、思い出した。大会中、兄にもらったカセットウオークマンで
この歌をずっと聞いているって言ってた。
「今お兄さんが使っているMDウオークマンも卒業後、慎司の手に渡る」
(笑)ちなみに兄との関係はと言うと・・・
「<兄弟ゲンカ>中学生まではよくあったが、高校に入って全くしなくなった」
確かに、仲よさそうだったもんなあ。
「サッカーノート 表紙 点取り屋+ゴールハンター+全国制覇」
目標は明確だった。この3日後、彼は東福岡との準々決勝で2ゴールを挙げ、滝川第二2度目の国立行きの主役となる。

せっかくだから、もう少し見てみよう。
今度はノートだ。珍しく、探したらすぐに出てきた。
「2003 高校サッカー」
ペラペラ。「16 岡崎」あった!
もう取材した記憶もハッキリある。
「"夢" 高校サッカーは夢の1歩目。プロサッカー選手。世界№1ストライカー。」
この頃、今の彼の姿は到底、想像できなかったなあ。
「左足首付近ねんざ」
そうだ、確か、2年の選手権予選はケガで準決勝まで1分も出られなかったんだ。
「決勝に出てチームに貢献します」
第82回選手権兵庫大会決勝 岡崎慎司は後半開始から大会初出場。
ロスタイム奇跡の同点ゴール。
いまでもあの試合の実況は覚えている。
「世界№1ストライカーになりたいと話していた岡崎~、決めましたあ。」
チームは戦後初めてとなる同大会決勝での延長戦を制し、3年連続で選手権出場を決めている。

03

こうなったら、3年のノートも見たくなってきた。
あるかなあ・・・。あった、本当に珍しい。
「2004 高校サッカー取材」
「16 岡崎」
「黒田→"初心に戻れ""主将→プレーに集中しろ""お前は点を取ることが最優先"」

3年で主将を任された彼は、最後の選手権、悩んでいた。
チームをまとめようと腐心するあまりにプレーに精彩を欠いていた。
見かねた黒田監督は、滝二のエース番号「9」から過去2年間、好成績を残してきた
「16」に変更し、様々なアドバイスを送った。
「ラストサムライ サムライほど強い意識を持って目標を目指すものはない。
僕に足りないのは"サムライ"の心。」

映画「ラストサムライ」に感銘を受け、この頃から彼の代名詞でもある"侍"という言葉が
度々出るようになる。

第83回選手権兵庫大会。
滝川第二は順調に勝ちすすみ、4年連続の選手権出場となった。
大会前、不調が伝えられていた岡崎慎司だが、予選全4試合でゴール。
さすが!

高校時代最後の取材欄には赤字で「慎司」と書いてあった。
「1年6月までEチーム。一番下の補欠だった。自分はうまくない。
プロに行くけど、うまくて獲ってもらったわけじゃない。ミスしてもいいから
自分の最初の気持ちに戻って、"一番下手"と思ってシンプルにやるだけ」

いつも僕がお母さんと話すたびに言う言葉は
「慎司君は本当に高校の頃と同じですね。」
すると帰ってくる返事も不変。
「あの子は自分が下手とずっと思っているからやと思います。」
岡崎慎司は、昔から何も変わらない。
だから、みんなに愛されるのではないかと思う。

最後の取材メモから6年が経った。
今、彼は、南アフリカにいる。
ワールドカップ。最高峰の戦いの中に・・・いる。
試合に出られるかどうか報道によると微妙とも伝わってきている。
でも、僕は信じている。
「世界NO1ストライカー」になることを。

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2人の監督

03
第88回高校サッカーは、山梨・山梨学院大学付属高校の初出場初優勝で幕を閉じた。
84回の滋賀・野洲以来5大会連続で初優勝校が誕生し、まさに
選手権は“群雄割拠”の時代に完全に突入した。

兵庫県代表・神戸科学技術(以下科技)高校は2年ぶり2回目の出場。
昨年の高校総体で初の全国ベスト8進出を果たし、今大会は優勝候補にも挙げられていた。
初戦の相手が、青森・青森山田。
こちらも同じくV候補。新春1月2日の試合は2回戦屈指の好カードとして注目を集めた。

「相手は横綱。うちは前頭。120点の試合をしたい」と話していた科技・鈴木利章監督。

実は、昨年の末、神戸を出発する前に、ある人から気合いを注入されていた。

そのある人とは、全国高校駅伝で2位に入った西脇工業・男子の足立幸永監督。

2人はともに現在の兵庫県多可町出身で、中町中学の先輩後輩の間柄。
(足立監督が2年先輩にあたる)

ちなみに、足立監督は中学時代野球部に所属、鈴木監督はサッカー部に所属していた。

12月下旬、静岡合宿に出発する直前、鈴木監督の携帯が鳴る。
「今ちょっと神戸におるねん。会える?」電話の声は足立監督だった。

久しぶりに三宮で再会した二人。
当然、話題は、全国高校駅伝へと移る。

西脇工業は、県予選では須磨学園の後塵を拝した。
西脇工業・報徳以外が優勝するのは、実に33年ぶり。
まして、足立監督は就任1年目。名将・渡辺前監督の跡を継いで1年目でのこの結果だけにかなり思うところがあったのではと、容易に想像できる。

03

その足立監督のパワーの源は、昨年12月、10度目の防衛に成功したWBCバンタム級チャンピオン長谷川穂積選手だった。
(長谷川選手は多可町に近い西脇市出身)
“よし、今度は先輩からパワーを頂く!”

しかも、西脇工業と最後まで2位争いをしたのが、青森山田高校!
さらに、駅伝チームの中心・田村選手はサッカー部の2年生エース柴崎選手と
同じ青森県野辺地町出身。
“その青森山田に競り勝ったんやから、次はサッカーでも!!”
間違いなく、西脇工業の全国2位は、鈴木監督を、科技高を勇気付けた。

しかし―。
1月2日千葉市原臨海競技場のピッチには、科技高の無念の涙・・・。
0-2。エース伊佐の負傷交代があったとはいえ、完敗だった。

最後のロッカールーム。
見るものの胸を締め付ける選手の涙。
鈴木監督は、何度も教え子を見渡し、ホワイトボードを静かに消す。
5分ほど経ってから、ケガの伊佐を労り、選手数人の頭を撫で、ゆっくりと語り出した。

「ご苦労さん!特に3年生、高校サッカーは終わるけど、サッカー嫌いにならんと遊びでも何でもいいからボールを蹴ってくれな・・・。」

そして、大きく深呼吸。
「俺は、昨日の夜の最後のミーティングで一つだけ言わなかったことがある。
俺自身はみんなに“ありがとう”って言ってない。
お前らが、今日ここまで連れてきてくれたわけやから、そのおかげで俺もいい思いをさせてもらった・・・。

本当にありがとう!!よく頑張ってくれた!!
お前らもう、科技高のユニフォームを着ることないけど、
またここにも1・2年生おるし、
後輩が頑張っているのをしっかり応援したってな。

ありがとう!よー頑張った!!
何も恥ずかしくない。顔を上げて神戸に帰ろう」

選手に感謝の意を表した鈴木監督。本当に優しい表情だった。
選手を第一に考える鈴木監督らしい最後のメッセージだった。

神戸科学技術サッカー部4期生の戦いは終わった。

2010年1月中旬、神戸―。
鈴木監督は、選手権以降、いまだ足立監督と連絡を取っていない。
「勝ったらな-(連絡してこいよ)」
という足立監督の言葉が脳裏に残っている。
“いつ電話しますか?“という私の問いに
「新人戦が終わってからかな」。
まもなく始まる新人大会。
「前途多難。勝てるかどうか分からないよ」と言いつつも
“足立監督に優勝報告を”が現在の鈴木監督の大きなモチベーションである。

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何と言ったらいいか

03
この日は忘れない

赤星選手が引退・・・。
寝耳に水とはまさにこの事。
一報を聞いて、すぐに会見場へまさに"飛びました"。

表情は複雑に見えました。
やはり、完全燃焼といかなかったからでしょうか。
無念さが見て取れました。

彼の会見を見ながら、思い出したのは2000年12月の入団会見。
有名な「新庄さんの穴は僕が埋めます」発言にまだ初々しい写真用のガッツポーズ。
走馬燈のごとく記憶が蘇りました。

「ビデオ早く見たいなあ」
この年の9月15日、赤星サヨナラ安打、18年ぶりの優勝という一連の流れをサンテレビは放送する事ができました。
それから少し経って、甲子園の通路、私の後ろを歩いていた彼が話しかけてくれた言葉です。「すぐ渡しますね」と即答。当時はDVDではありませんでした。
後日VHSテープを渡した時の子供のような笑顔・・・。

「すみません、ゴルフ行けません!」
大勢の報道陣がいる中で、目が合った私に言った2008年オフ。
恒例の「レッツゴータイガースゴルフ」の収録日とゴールデングラブ賞の表彰式が重なってしまったのです。
受賞の喜び会見でわざわざ謝ってくれて、こちらは恐縮するばかり。
いつもサンテレビの事を気に掛けてくれました。

今だから言えますが、18年ぶりに優勝した2003年。
多忙を極めたオフ、東京の放送局からの番組出演依頼に「先に声をかけてもらったので」と言って断り、「熱血!タイガース党」に出演してくれたこともありました。

「何か縁がありますよね」
これは今年の春聞いた言葉。
2003年9月15日のサヨナラ安打に始まり、
2004年5月15日雨の中でのサヨナラ安打。
2008年10月12日盗塁の球団タイ記録に
今年の4月 日盗塁の球団新記録。
これらのシーンを実況させていただきました。
そして、9月12日のあのダイビングー。
あれも実況は私でした。
密かに、もう一度彼が甲子園球場で躍動する姿を実況するのが夢でした。
そして、復活を遂げたその時、本人に言おうと思っていました、
「やはり縁ありますね」と。
でも、それは叶いませんでした。

「すみませんでした、何も話せなくて」
これも今年の開幕直後。
開幕3連戦明らかに体調は万全ではありませんでした。
私が挨拶しても返事はなく、相当厳しいのかなと。
でも、その直後、甲子園での開幕戦。
グランドに現れた彼が私を見て言った言葉が先のもの。
本当に誰にでも気遣いしてくれる選手でした。

たった9年?と思うくらいファンにも私たち報道陣にも様々な思い出を残してくれた
レッドスター。
今浮かぶのは一言だけです。
「ありがとう」

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何回見ても・・・

先日、テレビでまたこの映画を見ました。
「天空の城ラピュタ」。
初めて見たのは、1988年4月。
湯浅明彦、中学2年生(13歳)。
実は、1988年4月というのは、私が初めて当時のVHSビデオデッキを
手に入れた時期でもあるんです。
(もちろん兄のお古ですが)
そして、初めて手にした真新しいビデオテープで最初に録画したのが
何を隠そう"ラピュタ"なのです。

もう何回見たやろか?
両手では収まりきらないほどであるのは間違いない!

中学の時、一人ムチャクチャ"ラピュタ"好きの同級生がいて、
二人で台詞を言い合ったりしたこともあったなあ。
個人的には最後の場面でムスカという悪役が
「3分間待ってやる!」
という場面がなぜかすごく好きで、事あるごとに、よー言ってました。
主人公・パズーが吹くトランペットのメロディー、覚えました。
そうそう、ラジオ関西のアニメソングの番組で"ラピュタ"の歌が放送されたとかで、
そのカセットテープを借りて、すり切れる程聞いたこともありました。

見るたびに感じることが違うんですよね。
13歳の時の気持ちと35歳になった今と。
"宮崎駿さんが伝えたかったことは、何だろうか"
今回見て思ったことです。
昔は自然の大切さとばかり思っていましたが、実はまだあるのではないかと。
例えば、主人公・パズーの勇敢さ。
"男の子はこうあるべき"みたいなメッセージもあるのかな、とか
見終わってからしばらく考えました。

ただ、いくつになっても共通するのは
見てしばらくの間、空を見上げて感じること-。
「あの雲の向こうに"ラピュタ"あるんかなあ・・・」
アニメってホント素敵ですね!

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憧れの人

私は兵庫県西宮市出身です。
生家は、甲子園球場から自転車で7~8分の距離でした。
子供の頃から父親によく言われていました。
「近くに住んでた松田君はずっと野球をしていたで」

松田君とは、松田慎司さん-。
報徳学園出身で社会人西濃運輸を経て、1992年ドラフト2位で日本ハム入り。
そのあと、ダイエー・ヤクルトへと移籍し、2003年引退。
現在はヤクルトのスカウトをされています。

松田さんは、私の子供の頃からの憧れの方でした。
父から口癖のように言われていたことと、決定的だったのは兄と同級生だったこと。
直接同じクラスになったことはありませんでしたが、何度か公園で野球をしたことがあったとか。

昭和60年、春のセンバツ。
まもなく小学5年生になる春休み。
時はPLのKKコンビ全盛期。
エース松田擁する報徳学園も出場。
「あき、松田君、甲子園出てるわ」
兄の一言から、私はテレビに釘つけになりました。
2回戦、優勝候補の横浜高校戦。逆転勝ち!兄と歓喜。

準々決勝では、この大会準優勝する帝京高校と対戦。
この時、風邪を引いていて、病院にいた私。
病院に設置されていたテレビのチャンネルは、毎日放送のセンバツ中継でした。
またまたテレビに夢中になった私。
試合は2-7で敗れ、チョー落胆。
その時、病院の受付の女性が私に言いました。
「本当に患者さんですよね??」

時は流れて2001年。
ヤクルト戦の中継の前に、私は高鳴る鼓動を抑え、ヤクルトベンチへ。
170㎝の小柄な憧れの人は目の前にいました。
「す、す、すいません。サンテレビのアナウンサーの湯浅と申します。
じ、じ、実は兄が松田さんと小学校の同級生でして、昔からずっと見てました。」
と一気にまくし立てました。
背番号49のサウスポーは、そんな見知らぬ27歳を温かい笑顔で迎えてくれました。
「そうなんや、誰?湯浅?覚えてないなあ。でも、嬉しいなあ。ありがとう。」
この夜、興奮気味に実家に電話したのは言うまでもありません。

そして2009年。
スカウトに転身されてお会いする機会はあまりなかったのですが、
先日、久しぶりに再会。
担当していた三菱重工神戸の山本哲哉投手(今ドラフト2位で指名)の仮契約の取材でした。
24年前、テレビで見たまんまの笑顔で、気さくに写真撮影にも応じてくれました。
まさに、気持ちは小学5年生にタイムスリップ!
その夜、兄に画像付きのメールを送ったのは言うまでもありません。

山本投手は、即戦力右腕として期待が高いようです。
もし、彼が投げている試合を実況する事があれば、
松田さんの顔をオーバーラップさせて喋るのかなあ(笑)

03

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決戦!

沖縄も暑かったですが、神戸も暖かい日が続いていますね。
そんな春を思わせるような日差しの元、高校サッカー兵庫大会の新人戦決勝が15日、行われました。

03
カードは、滝川第二VS神戸科学技術。
これで、昨年からインターハイ・選手権と3大会続けての決勝での顔合わせ。
ちなみに、過去2回は滝川第二が勝って優勝しています。
今年のチームの主力となる新3年生同士で、昨年の2月に県の公式戦で戦った際も、滝川第二が3-1で快勝。
神戸科学技術サイドには負けられないムードが試合前から漂っていました。

両チームいずれも、昨年のチームからセンターバックの3年生2人が抜け、
やや守備力に課題と言われる中での決戦。
ともに、全国大会を経験している前線の選手が、いかに持ち味の攻撃力を発揮できるかがポイントでした。

いざ、試合開始。
持ち味のショートパスを起点に再三チャンスを作る滝二。
カウンター攻撃からゴールを襲う科学技術。
決定的なシーンが何度もありながら、前後半70分を戦い、0-0。
試合は延長戦へ。

「昨年の今頃を思い出してみろ!前半で0-2、後半1-1で結果1-3で負けた相手に今日は0-0。成長しているぞ!!楽しんでこい!!」とイレブンを勇気付けるのは神戸科学技術・鈴木監督。

「勝つことにこだわりすぎてないか~?勝つよりも今大事なのは
得点を挙げる形をしっかり作る事。こんなゲーム、これからナンボでもあるぞ。乗り越えられへんかったら、先はないぞ」と、優しい口調で語りかけるのは滝川第二・栫監督。

お互いに火花が散るいい決勝戦になりました。

結果は、PK戦も頭によぎった延長後半、神戸科学技術が2点を挙げ、見事優勝。
点を決めたFW鷲尾・伊佐は、1年生時に全国高校選手権のメンバー入りを果たした新チーム期待の二人。
最高の形で新人戦2連覇を達成し、2大会連続で滝二に敗れていた雪辱を果たしました。

「滝二に勝ったのは、本当に自信になる。嬉しいです。
1年の最初にいいスタートを切れてよかったです。
でも、これに驕ることなくこれからまた頑張っていきたい。」と話すのは科学技術・鈴木監督。

「やはり、今の課題が出ましたね。点がなかなか取れない。
また、一からやり直して、インターハイにはいいチームにします。」
と淡々と試合を振り返った滝川第二・栫監督。

次に両校が対戦する可能性があるのは、インターハイの決勝戦。
すでに、視線の先は夏に向いていました。

尚、この試合の模様は、23日の「ニュースシグナル」でお伝えする予定です。
是非、ご覧下さい!

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いきものがかり

今日から沖縄キャンプ取材です。

今回、私の旅のおともはというと・・・、やはり「いきものがかり」!

1月のマイブームがやや下降気味かと思いきや、またまた上昇カーブ。

二度目のブレーク!移動で一時間程度、バスに乗ることがある沖縄。

バスでの相棒はCDウォークマンしかない。

となれば「いきものがかり」は必携でしょ。阪神・真弓監督の初日の共同インタビューの後ろで流れていたのは名曲「ブルーバード」

いやあ最高!沖縄に持参したのは新アルバム一枚のみ。

ミスチルとの併用も考えましたが、「いきものがかり」一本にしました。

エースとしてすべてを託しました。その期待に十分応えてくれました。

と、バスの中でメールしていた途端、まさかのCDウォークマン電池切れ。

ま、人生こんなものですね(笑)

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“あいつ”

03
滝川第二高校は第87回全国高校サッカー選手権大会で3年ぶりのベスト8進出を果たした。
「やっぱり、強いね」と神戸に帰ってきて、私自身も声を掛けられた。
滝二は華麗に"復活"した。

現在ヴィッセルに籍を置く黒田和生前監督が滝川第二を去って2年。
後任の栫裕保監督は就任1年目の2007年、県のすべてのタイトルを逃した。
これは、チームでは実に12年ぶりの屈辱。
特に、「総決算」と位置づける全国高校選手権に出られなかったことは、県外のサッカー関係者にも衝撃を与えた。
"監督も代わって、滝二弱なったね"
こんな声も監督の耳には届いたという。

2008年は、栫監督にとっても、"新生滝二"にとっても大切な年だった。
今や、岡崎に代表されるように森島や金崎など日本代表候補にも何人もOBが名前を連ねるが、新チームにJリーグに進むような"スター選手"はいなかった。
ただ、チームワークは抜群だった。

滝川第二はAチーム(トップチーム。レギュラーを中心に構成)
Bチーム(Aチームを狙う2年生を中心に構成)Cチーム(1年生を中心に構成)と3つのグループに分けて普段、練習をしている。
ある雨上がりの日、水浸しのグランドでAチームの練習開始前。
B・Cのメンバーが、雑巾など布で水を汲む姿があった。
栫監督は「俺らの分まで(Aチームのみんな)頑張れよ~。部員81人で戦うぞ」
という姿勢を感じたそうだ。
今度は、別の日にB・Cの練習前にAチームの全員が、グランド整備やライン引きをしていた。
「自然とやっていた」(栫監督)姿に、チームへの手応えは日増しに大きくなっていった。

新人戦こそ、ベスト8に終わったものの、インターハイ・選手権を取り戻す。
特に、選手権の県大会決勝では、2度リードを許しながらの逆転勝利。
5点を取った攻撃力は、すさまじかった。
そして、全国でも、市立浦和(埼玉)、近大和歌山(和歌山)を破り、準々決勝へ。
レギュラーボランチ不在の厳しい戦いではあったが、部員全員の思いが、見事結集した結果だった。

栫監督が大会中、一番頭を悩ませたのが選手起用。
ケガ人もあったが、コーチ時代、Bチーム、いわゆるこれからレギュラーを目指そうとする選手の指導が長かった栫監督だけに、3年生、とくに苦労した最上級生を一人でも多く出したい。もちろん、相手に失礼のないよう。
そして、これは、黒田前監督と相通じる部分でもある。

準々決勝、鹿児島城西戦の前日。
コーチ陣に「大迫勇也くん(鹿島入り。今大会10得点の新記録で得点王)
はすごい。もし、大差で負けていたら、"あいつ"出すかもしれんよ」と選手起用のパターンをいきなり切り出した。
「まだ、"あいつ"出てないし、3年間、よく頑張ったからね」
こんな話は、山ほどある。
「彼を出せてよかった。いい引退試合になった」
「あと一回、勝てばケガの具合もよくなっているし、ベンチに入れられる」とメンバー表片手に確認していくといった具合。
ゲームプランは、選手交代、しかも3年生を多く出すという部分に大半は占められているのではないかと思うほどだ。

迎えた1月5日、後半の途中で0-6。
試合は本当に、一方的になってしまった。
私はの興味は、栫監督が3人目の最後の交代枠をどう使うかに絞られた。
そして、前日、離していたとおり、"あいつ"を起用した。
その瞬間、ある光景を思い出した。

今から7年前、滝川第二は、選手権の2回戦で静岡学園という強豪に0-5で大敗。
その試合、黒田前監督は、最後の交代枠で、県大会でもほとんど出ていない3年生を使った。
当時、20代半ばの私は、その日の夜、神宮球場近くのラーメン屋でまなじり決する思いでベテラン黒田さんに聞いた。
「なぜ、彼を出したのですか?」
「不思議か?あいつは、ホンマに3年間、黙々と頑張ったんだよ。それに応えてやりたくて」
その後、こう続けた。
「あー、悔しかったなあ。(沈黙)でも、"あいつ"を出せてよかった・・・」
あのラーメンの味を私は一生忘れない。

栫監督は就任直後言った。
「滝二の色は黒田さん、私、そして過去も含めたスタッフ全員の色なんだ。
だから、監督が代わったからといって、色は何も変わらない。
滝二は何も変わらない」と。
その言葉は本当だった。
伝統は、確実に受け継がれている。

"あいつ"は、すごいシュートを一本打った。
ベンチにいる栫監督は本当に悔しそうだった。
でも、ちょっぴり嬉しそうな表情に見えたのは気のせいだろうか。

数々のドラマを残して滝二の冬は終わった。

「湯浅さん、負けた経験は最大の教育指導と確信しました。
新チームもおもしろいですよ。今ワクワクしています。」と神戸に帰ってきた
栫監督は希望に満ちていた。

"監督も代わって滝二は-"、そんな声はいつの間にか消えていた。

2月1日、新チームの公式戦初戦となる兵庫県新人戦2回戦、滝川第二は8-1で快勝。最高のスタートを切っている。

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