
当時を振り返る髙田さん

震災当時の相信病院 提供:髙田さん

震災当時 髙田さんが残したメモ

震災当時の応援に駆け付けた益子さんと髙田さん

緊急移転先の保育所の様子 提供:兵庫県保険医協会

髙田クリニックで語る髙田さん

地震で被災した青森のむつ総合病院 提供:一部事務組合下北医療センターむつ総合病院

地震で被災した青森のむつ総合病院 提供:一部事務組合下北医療センターむつ総合病院
未来へのバトン
1995年1月17日 阪神淡路大震災当日。
医師や看護師らは、目の前の患者を救おうと最善を尽くしました。
助かる命なのか、それとも助からない命なのか、予談を許さない状況が続きました。
「医師として勝手に体が動いた」
兵庫県神戸市須磨区の板宿駅近くで災害医療の最前線に立った医師がいます。
髙田クリニックの院長 髙田彰彦(73)さんです。髙田さんは当時をこう振り返ります。
髙田さん
「目の前で人の呼吸が止まって心臓が止まって助けてと。私自身も戦争は経験がないのでそんな修羅場を経験するとは思わないんですけど、今自分が何をできるといえば医療行為で、役に立たなければいけないと思って勝手に体が動いた」
まるで野戦病院
震災当時、髙田さんは42歳。
神戸市須磨区で父親の代から40年以上続く相信病院の院長でした。
地震の後、5キロ先の自宅からスタッフのバイクに乗せてもらい、病院に向かうといつもの町の姿はもうそこにはありませんでした。
髙田さん
「目の付くところは全部 古い家はぺっちゃんこでしたね。家屋の2階がつぶれて1階が座屈して妙法寺川から回ってくるところは向こう一体火の海やったね。
オートバイで来た時に建物が見えてほっとした。そばまで来たら鉄筋入りの柱が全部 せん断破壊されていましたね」
野戦HP‼
髙田さんは当時の状況をメモに書いて残していました。
そこには「野戦HP(ホスピタル)!! 死亡確認17名、その他重傷者無数」と記されていました。
髙田さん
「見たことないような光景ですよね。次から次から運ばれて来てこの場所というのは若い女の人を畳に乗せられて がれきまみれで来られて 心臓マッサージをしたのを覚えています。怖いとか 悲しいとか 大変という気持ちよりもどうしようどうしよう、次どうしようという気持ちしかなかった」
病院のスタッフや入院患者は無事でしたが、
病院のロビーには助けを求める人が押し寄せていました。
“力を合わせて” 地元の開業医が集結
相信病院近くの益子産婦人科医院の院長 益子和久(ますこ・かずひさ)(76)さんは、髙田さんとは、幼いころからの知り合いで震災当日には応援に駆けつけました。
益子さん
「恐らく人手がいるだろうということで病院に飛んでいきました。
行ったら案の定 患者さんが続々と」
全壊した相信病院近くの開業医たちが集結し、
傷を縫い合わせるなど、救急患者の対応に当たりました。
髙田さん
「災害医療のまさにリアルタイムで第一線で大活躍でした。
初期医療には十分に役に立ったと思います」
益子さん
「相信病院がなければかなりの人たちが困ったと思いますよ。
何をすべきかとか、マニュアルも何もないですけど
それぞれがそれぞれの分担をやるしかなかった」
病院放棄決定 保育所へ緊急移転
地震から2日目(1月18日)の夜。
余震が収まらない状況に、高田さんは大きな決断を下します。
髙田さんのメモ「1月18日夜、余震に備え病院放棄決定」
震災から3日目(1月19日)の朝、
警察の協力を得て患者約80人とともに近くの神戸市立すま保育所(当時)に避難。
髙田さんは、ほぼ寝ずに無償で医療行為を提供し続けたそうです。
水もガスも復旧していない中、
配給の弁当をおかゆにして病院食にするなど
難局を乗り越えるためにスタッフらと知恵を絞りました。
髙田さん
「日本の厚生行政上 唯一 無許可病院という 戦争状態と一緒の状態が来て 野戦病院はこんなのだろうと想像が働いてとにかく自分は守らなければいけないから患者さんを守る責任がある。高まいな命を助けるという意識はなかったと言えば語弊があるが勝手に頭と手が動いた」
野戦病院を立ち上げ、災害医療に当たった髙田さんですが
その後、待ち受けていたのは病院存続の危機でした。
震災から1カ月後(1995年2月)、
緊急移転した保育所から立ち退きの要請をされていました。
相信病院が全壊し、戻る場所がない中、救いの手を差し伸べたのが益子さんでした。
益子さん
「入院患者さんを何とかしないと。来いよと」
益子さんは、困っている仲間のためならと持ちビルの一角を半年ほど無償で貸し出し、
髙田さんは、1995年2月に診療所として再スタートを切りました。
髙田さん
「うちが空いているから 来ないかと益子先生から声を掛けられた時は本当にうれしかった。地獄で仏、そういう印象」
廃院決定“それでも医療を止めない”
一方で相信病院の再建には莫大な資金が必要となり、震災前から借り入れもありました。
10年程前から赤字が続き、補助は十分と言えず、髙田さんは廃院を余儀なくされました。
髙田さん
「無念な気持ちが先にありましたけれども、まだ廃院にしても次何か同じような医療内容でできないかという気持ちの方が先に立ちました」
髙田さんは、民間病院で廃院した唯一のケースだと話します。
震災から2年後の1997年9月、病院のあったすぐそばに髙田クリニックを設立しました。
髙田さん
「続けなければいけないという義務感が多かった。医療は継続性が一番大事 一人の患者さんを最初から最後まで自己完結的に全部診られるというのが、内科の医者の喜びでもありますから、そのつもりで存続することを第一に考えて診療所に移行した」
震災前から通う地域住民にとっては、
今も昔も心のよりどころです。
地域の人はー
「近くで診療していただいて 一番ありがたいなと感じた。
地域の人から見たら一番頼りになるのではと」
青森の病院が地震で被災 「31年前と変わっていない」
震災から31年、あの日の記憶が蘇った出来事がありました。
2025年12月08日、青森県東方沖で最大震度6強の地震が発生。
地震で建物が被害を受けた青森県にあるむつ総合病院の
光景は31年前の相信病院と重なりました。
髙田さん
「水が天井から垂れて床がびしゃびしゃになって患者さんを移動させたと。いっぺんに31年前の自分の病院の光景がフラッシュバックして浮かびました。似たような損害を被っておられるなという印象が浮かびました。」
むつ総合病院も震災の前から経営難の問題を抱えていました。
30年経っても改善されない医療機関の慢性的な赤字経営の改善を訴えてきた髙田さんは、あの日の自身の経験から、支援策の必要性を訴えます。
髙田さん
「病院に対してはその時その時の補助金や復興基金から地震個別に場当たり的に補償がなされるようにはなってきていると思うが、とくに被災した医療機関を経済的に支援するという立法化は、いまだかつて31年経つにおいてもされていないということを考えれば暗たんとした気持ちがある。31年経ったので遠い記憶の向こうに押しやろうと思っていたが、地震の後の民間病院が被害を受けた姿を見て記憶がよみがえって何かしら民間病院の助けになるような法律の立法化に向けて、何か経験者としての経験談 状況を一般の方に知っていただきたい」
取材:サンテレビ社会報道部記者 難波佑河