
仙台で授業を行う岡田さん

家族の元を離れ自身が通う高校の避難所にボランティアへ

東北へ向かう岡田さん

岡田さん一家

授業を行う岡田さん
未来へのバトン
31年前に阪神淡路大震災を経験し、現在は宮城県で教壇に立つ男性がいます。阪神淡路大震災と東日本大震災、2つの被災地でボランティア活動にあたり、生徒たちに自身の経験と災害に備えることの大切さを伝え続けています。生まれ育った街を離れ、移住することを決めた男性の思いを取材しました。
神戸で被災した仙台の高校教諭
試験を控えた高校3年生に授業を行う岡田卓也さん(49)。宮城県仙台市の工業高校の教諭として電気の基礎を教えています。この日、生徒たちに語ったのは阪神淡路大震災の記憶です。
岡田さん
「先生はうつ伏せで寝ていたんですけどすごく揺れて、ベッドから引き落とされないように下向きにベッドをつかんだのをすごく覚えている」
兵庫県神戸市出身の岡田さんは、高校3年生の時、市内で最も多くの犠牲者が出た東灘区で阪神淡路大震災を経験しました。
岡田さん
「もともとここにあった家は斜めになってしまって。今は立派なコンクリートの擁壁なんですけど、地面が緩くなったせいで家が道路の方に傾いてきていた」
自宅は全壊。幸い、両親と兄妹を含め、家族は全員無事でした。
父親の精二さん(76)は、 阪神淡路大震災の記録を映像に残していました。
神戸に里帰りした2025年12月、父が撮影した映像を初めて見せてもらいました。
岡田さん
「危ない危ない、崩れているもんなあ。階段も崩れているやん。覚えていないもんやね」
父・精二さん
「この辺撮った記憶あるわ。しょっちゅう様子を見に行った。やっぱり記録として残してね」
岡田さん
「改めてすごい揺れやったんやなと思う」
震災の後、祖父が暮らす大阪府豊中市に身を寄せ不自由ない生活を送りましたが、岡田さんの目に飛び込んできたのは変わり果てた神戸の姿でした。
岡田さん
「逃げてきて良かったと思ったけれど、テレビをつけてみると神戸の街がまだ燃えていたり避難所で大変な目にあっている人たちの姿がすごく見えてきて、僕は何をしているんだろう。ゆっくりしていていいのかなと思って」
震災から1週間後、当時高校生の岡田さんはある決断をしました。
家族の元を離れ自身が通う高校の避難所にボランティアへ
岡田さん
「(当時)御影工業高校の避難所があってそこで長い間住み込みという形でボランティアしていました」
一人で向かった先は、自身が通っていた東灘区の高校。目の前にいる人たちの力になるため家族の元を離れ、泊まり込みで支援にあたりました。
岡田さん
「食堂の一角なんですけど、物資を近隣の在宅避難の方に配る場所で生徒のボランティアが主に手伝いをしていて、音楽室からギターを出して1曲歌ったりして皆で盛り上がったり。ボランティアだけじゃなくて学校の職員も学校の再建に向かってやりつつ、被災者の皆さんのために動いていた。そういう姿を見て私も教師になりたいなと思って。この時高校3年生で進学も決まっていたけれど、教員免許を取るために大学に入り直して教員になった」
学校と地域、その両方に寄り添う教師の姿に憧れ、同じ道を進むことを決めた岡田さん。
今度は教える立場として母校に戻り、復興した街で生徒たちと向き合う日々を過ごしていました。
しかし、再び日常が一変します。
遠く離れた東北地方を襲った東日本大震災。最大震度7の揺れと津波が襲い、2万2000を超える命が犠牲となりました。
神戸から東北の被災地へ
岡田さん
「津波の後でぐちゃぐちゃで。泥だらけで。ほこりまみれで。道の真ん中に船が転がっていた」
いてもたってもいられなかった岡田さん。学校の春休みが始まるとすぐに壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市に向かいます。
石巻でインタビューに応じる岡田さん
「神戸は火事が多くて大変だったけれど、こっちは津波なので全然違う景色でしたね。根こそぎですし、民家は基礎だけになっていた。心が痛むし神戸の時のことも思い出すし、神戸の時にいろんなボランティアさんにお世話になったので、今度は恩返しをする番だと思って」
約2週間、家屋の片付けや仮設診療所のサポートにあたりました。
被災地で受け入れてもらえたからこそ、岡田さんはボランティアとして活動することができました。
大丸英則さん(当時石巻でボランティアの調整を担当)
「覚えています」「うれしくもあり頼もしくもあり」
岡田さん
「来られるんやったらすぐにでも来てと言っていただいたので来させてもらって」
ボランティアたちの生活拠点として石巻市内の大学が使われていました。
阿部由紀さん(当時ボランティアセンターを運営)
「最大で1000人くらい暮らされたのかな テント村みたいなのができて」
岡田さん
「ここから石巻市内のいろんなところ現場に行ってボランティア活動して夜ここへ帰ってきてテント村で休んだりたまにボランティア向けの炊き出しもあったりして」
岡田さんの神戸での経験は、東北の暮らしを支えていました。
阿部さん
「阪神淡路大震災の経験を持ち寄ってくれて、阪神の時どうだったとかすごく参考にしたし心意気が移植された気がする。安心感というか、見てくれは怪しいですけれど」
その後も長期休暇の度に被災地へ足を運び続けました。
岡田さん
「何度も通ううちに情も沸く。行って1週間ボランティアをするけれどできること限られているし、ちょっとでも元気づけられたり応援できたらいいなと思って」
もっと近くでもっと力になりたい。東日本大震災から2年半後、岡田さんは生まれてから30年以上過ごしてきた神戸を離れ、東北に移住すると家族に打ち明けました。
神戸から宮城県へ移住
震災後、岡田さん一家は神戸に戻り暮らしていました。
東日本大震災の2年半後、岡田さんは東北に移住することを家族に打ち明けました。
父・精二さん
「ちょっとはじめはびっくりしたけどね。本人の好きなように生きていかないとしゃあない。親が止めても言うこと聞かないやろうから行かせた」
背中を押してくれるのは、家族だけはありません。かつては教えを受け、教師としても同じ時間を過ごした先生たちも後押ししてくれました。
神戸の同僚の先生
「うそやと思いましたね。ほんまに行くんかと思ってびっくりしました」
記者
「東日本に移住することに反対しなかった?」
神戸の同僚の先生
「していない。うれしかった。反対する理由がない」
岡田さん
「ありがたいことに温かく見送っていただいて」
記者
「どんな生徒だった?」
恩師
「真面目で明るくて」
「戻ってきて正義感のあるやつやなと思いましたね。表面上はちゃらっとしているけど、芯がある」
2014年4月、東北に移住。この地で暮らし始めてから12年が経とうとしています。
岡田さんは、仙台市で交通指導のボランティアにも携わっています。
岡田さん
「こちらの交差点の見通しが悪くて交通量も多いので皆さんが事故しないように声掛けしている。ボランティアにいろんな所に行くと地域の力ってすごく大切だなと思って、いざという時のためにもなるので」
宮城県に移り住んでからも、熊本や能登などのボランティアに向かいました。
震災の継承活動に取り組む石巻市の公益社団法人「3・11メモリアルネットワーク」
理事を務める藤間千尋さんは、スタッフを通じて知り合った岡田さんに講演を依頼しました。
講演する岡田さん
「どうですか皆さん備えていますか?家に食料3日分備蓄している人?その辺から始めましょう。人のためにボランティアは大変ですよ。自分の家族を守るため」
東北で伝えているのは、阪神淡路大震災の記憶と教訓です。
藤間さん
「すごいエネルギーだなと思って見ている」
「東日本大震災のことを伝えることももちろん大事だけれど、阪神淡路大震災とか中越地震とか他の災害がどうやって伝え続けてきているのか学んでいる」
岡田さん
「伝えていくことね。30年経つとみんな忘れていくのでちょっとでも忘れられないように。忘れないことが次の防災や減災につながる」
岡田さんは現在、仙台市の宮城県第二工業高校で生徒たちに神戸の震災を伝えています。
生徒
「話がリアルであったことなのですごく伝わってくる」
「考えるだけじゃなくて行動できる人になりたいと思う」
昔から変わらない正義感と、迷わず駆けつける覚悟。教える場所は変わってもつなげたい思いは同じです。
ふるさと神戸への思いを胸に 伝えたいこと
岡田さん
「生徒にしっかり勉強を教えるのが一番大切な仕事だけれど、伝えたいことをいっぱい生徒たちにお話をするのも大切な仕事だと思う。地震を予知することは難しいと思うけれど、被害を減らすことはできると思う。1人1人の心構えで」
被災地で目にした悲しみが繰り返されないために、伝え続けます。大好きなふるさとで、刻まれた思いを胸に。
取材:サンテレビ社会報道部記者 藤浦彩花