
慰霊碑がある公園に訪れる長谷川博也さん

亡くなった妻・規子さん(当時34歳)と三男・翔人ちゃん(当時1歳)

仏壇の前で思いを語る息子・元気さん

語り部として経験を話す元気さん

語り部イベントの準備をする長谷川さん親子

息子家族と団らんする博也さん

元気さんが話す原稿を読む博也さん

新長田合同庁舎で開かれた語り部の会

息子への思いを語る博也さん
未来へのバトン
阪神淡路大震災の時、兵庫県神戸市東灘区で妻と息子を亡くした男性が、
2025年、初めて息子とともに震災の記憶を言葉にしました。
男性の思いを取材しました。
「亡くなった人は帰ってこない」 妻と三男を失ったあの日
神戸市東灘区の中野北公園に、時折足を運ぶ男性がいます。長谷川博也さん(74)です。
長谷川博也さん
「これが長谷川規子、長谷川翔人。
自分ところもそうやけど、
亡くなってしまった人は帰ってくるわけじゃないでしょ。
あえて積極的に発信しようとは思っていない。震災のことをね」
博也さんは、妻と3人の息子とともに暮らしていましたが、阪神淡路大震災で住んでいたアパートが倒壊。
妻・規子(のりこ)さん(当時34歳)と三男の翔人(しょうと)ちゃん(当時1歳)が
タンスの下敷きになりました。
長谷川博也さん
「死んだっていうのはよくすぐわかるからね。
触ったらそれこそ体は氷以上に冷たいっていうかそういう状態だったので」
震災を語り続けた息子の思い
息子・元気さん
「夕方ぐらいになった時に父が公園に来て
僕と(弟の)陽平に一言あかんかったわと言って」
そう話すのは、長男の元気さんです。
弟の陽平さんと避難していた中野北公園で、母と弟にもう会えないことを告げられました。
元気さん
「お母さんはすごい明るくて、パワフルというか
あかんことしたらしっかり叱ってくれるというそういう厳しい面もある母でしたね。
弟・翔人はとにかく笑顔がかわいい。
学校から帰ってきたら一緒に遊んでという感じでかわいがっていました」
2人の死をすぐには受け入れることができなかった元気さん。
心を整理するきっかけになったことがありました。
2007年 本山南中学校での講演
「母親と弟を亡くした。両親のことをもっと大切に思って感謝してほしい」
講演や取材などを通して「伝える」ことでした。
20歳の時、初めて中学生を前に震災の記憶を語りました。
元気さん
「僕は自分が何かを表すことで、心とか頭が整理されるのを感じていて、
自分の震災経験、震災から得た教訓を子どもたちが育っていく上で
大切なことを伝えることができるんじゃないかなと」
その後、小学校教諭の道へ進んだ元気さん。
ボランティア団体「語り部KOBE1995」にも入り
子どもたちに広く教訓を伝えています。
2020年 語り部KOBE1995田村勝太郎代表
「未来に向かって頑張ってほしいと思います」
4年前には、代表の役割を託されました。
2025年、神戸市中央区の東遊園地で毎年開かれる追悼式典で、遺族代表を務めました。
2025年1月17日 東遊園地
「ここ神戸に住む震災を知らない世代だけではなく、
より多くの方に防災、減災のスタートラインに立ってもらえるよう
これからも震災で得た教訓を語り継いでいきます」
家では多くを語らなかった震災
元気さん
「親子語り部のパートで話す内容を考えているところです」
元気さんは語り部イベントを目前に控えていました。
テーマは、「31年目からの語り部のカタチ」。
遺族が親と子それぞれの目線で語る企画で、
初めて父に声をかけ親子で参加します。
Q.今まで家でこういった震災の話をされることは?
元気さん
「家族でですか。 家ではないですね」
「お互いつらい記憶なので、 それを呼び起こすことは
お互いしない方がいいかなと思っていたんじゃないかなと思います」
この日、父・博也さんは、
打ち合わせのため元気さんの家を訪れました。
博也さん
「今度の21日の語り部の会は、定員オーバー?
元気が話をしたあとにお父さんが話するねやろ?
震災当時の状況が『どうだったこうだった』は言わへんで」
博也さんは地元の小学校で児童を前に話をした経験はありますが、
語り部イベントに出たことはありません。
親子で話すのも今回が初めてです。
博也さん
「少なくとも僕よりはしっかりしている。
土曜日、高校の同窓会やったやんか。
息子さんすごくしっかりしてますねって言われた」
元気さんは今、子を育てる立場になり、
2025年の春、3人目の命を授かりました。
元気さんの妻・ともかさん
「すごい!芙心ちゃん座れたね。初めてを撮っていただいた」
博也さん
「家族が増えるというのはとてもうれしいこと」
息子から父へ聞きたいこと「どんな思いで育ててくれた?」
帰り際、元気さんから父へ渡すものがありました。
元気さん
「チラシと原稿と一応…」
元気さんが当日話す原稿です。
聞く人に「自分ごととしてとらえてほしい」
そんな思いとともに父になった今、博也さんに聞きたいことがありました。
元気さん
「父からすれば妻と息子を亡くしていることなので、
震災当時は悲しいしつらかったはずなんですけど
それを僕たちの前では見せずに育ててくれたというところで、
父はどんな思いで僕たちを育ててくれていたのかとか、
いろんなことをしてくれていたのかと」
多くを語らなかった父と語り続けた息子。
それぞれの30年が静かに交わろうとしています。
初めて親子で語り部に
2025年12月21日 新長田合同庁舎
元気さん
「ゴーっと音が鳴ったかと思うと、ガタガタ、バラバラバラと大きく揺れ、
家の天井が崩れてきた」
「お母さん。お母さん。いくら呼んでも返事がない。
なぜか急に寒気が襲ってきた」
震災の記憶を親子で語る日がやってきました。
テーマは、「31年目からの語り部のカタチ」です。
母と弟を亡くした長谷川元気さんは、
初めて父・博也さんとともに登壇しました。
妻と子どもたちも見守ります。
元気さん
「いつまでも泣き止まない陽平と私を見て、
父は2人の肩を抱き寄せてこう言いました。
もう家族3人になってしもうたから、
これから家族3人で力を合わせて頑張っていこうな。
父は震災後、インフラが復旧してからは、
朝晩の食事は毎日欠かさず手作りをしてくれました。
深い悲しみを背負いながら、私と弟を力強く育ててくれた父には
本当に感謝しかありません」
息子の思いを受け、父・博也さんもあの日のことを語り始めました。
博也さん
「小学校では、メインの避難所となるべき講堂がある校舎が
震災で危険だと言って使えず、北校舎の1階が遺体の安置場所になっていました。
そのうちに次々と畳などに乗せられて遺体が運ばれてきて、
隣との間隔が狭くなり、
30人ほどで教室はいっぱいになってしまいました」
これまであまり語ってこなかった家族への思いも言葉にしました。
博也さん
「子どもたちの母親、つまり私の妻は
結構厳しいしつけをしていたと思います。
私はいつも眺める側の役目でした。
何か判断に困った時は、お母さんまでどうするかな。
と自分自身に問いかけました。正しい答えはそこにあったと思います」
Q.元気さんの話のサブタイトル「父がしてくれたこと」どう見つめていた?
博也さん
「『お父さん大変やったでしょうね』って
よく言われるんですけど、僕は昔人間というか、
親が子どもを育てるというのはもう当たり前やと思ってるので、
別にそれはもう『普通です』といつも答えています」
「もし僕だけが生き残っていたら」息子への思い
しかし、元気さんから原稿を受け取った日、
博也さんはカメラの前でこう話していました。
博也さん
「息子ら2人が生き残っていた。家族3人で生き残っていたということは、
僕があの頃、育てなさいねというそういうことかなと。
僕だけ生き残っていたら、 体を壊してもう今頃生きてないと思うんですけどね。
自分が歳をとって子どもが家庭を持ってやってきたかいがあった」
取材:サンテレビ社会報道部記者 小松田梓左