【ひょうご戦争の記憶】軍に徴用され戦地へ向かった民間船 知られざる船乗りたちの悲劇

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  • 徴用船の乗組員だった明さん(奥)弟の好さん(手前)

  • 兄のことを語る好さん

  • 明さんが向かったブーゲンビル島

  • 戦没した船と海員の資料館 岡村世紀一さん

  • 県独自に作成した台帳の内容とは

  • 通称・暁部隊は旧陸軍の船舶部隊だった

  • ニ十歳で亡くなった藤木明さん

  • 弟は兄の背中を追って船乗りに

太平洋戦争のさなか、軍に徴用され激戦地に赴いた多くの民間船が撃沈されました。

犠牲となった若き船乗りの一人を記憶している記者の祖父の証言をもとにその足跡を辿りました。

洲本市五色町から出航した戦時徴用船 その行く末は

洲本市五色町都志にある港。

かつて、ここから出航した1隻の船は十数人の若き船乗りたちを乗せ、激戦地に向かいました。

あどけなさが残る青年。

徴用船の乗組員だった藤木明(ふじき・あきら)さんです。

明さんが乗っていた船について覚えているのは

五色町でただ一人。弟の好さんだけになりました。

「元気で」と見送った兄の笑顔 それが最後の会話に

【明さんの弟 溝渕好さん(91)】

「『あっきゃん』『明兄やん』と言っていた。優しいお兄さんだった。

小さいときから船が来たと言ったら船着き場へ行って船に乗って一緒に戻ってきたり」

明さんは15歳の頃に大阪の海運会社に就職し、船乗りとして働いていました。

しかし、明さんが18歳、好さんが10歳の頃 家族は戦禍に巻き込まれていきます。

戦地に物資を届けるため、陸軍や海軍は民間の船や船員を次々に徴用。

数千トンクラスの輸送船の多くが撃沈されたことで小型の貨物船や漁船までもが徴用されるようになったのです。

明さんは旧陸軍の船舶部隊 通称・暁部隊に徴用された「明神丸」の乗組員として

1944年4月、都志港から出航しました。

【明さんの弟 溝渕好さん(91)】

「『きょう、昼から神戸行くんじゃあ』って。『「元気で』って答えた。

元気な顔だったで、いい笑顔してたわ、いつも。元気で兄貴もじき戻ってくるぜと思ってた」

幼かった少年はこれが最後の会話になるとは思っていませんでした。

洲本市から墓島と呼ばれたブーゲンビルへ 兄の最期は

明さんたちが向かった先はパプアニューギニアのブーゲンビル島。

日本軍だけで4万人もの死者を出した激戦地でその悲惨さから「墓島(ぼとう)」と呼ばれました。

【明さんの弟 溝渕好さん(91)】

「明神丸は爆撃受けて沈んでしまった」

多くの輸送船が攻撃を受ける中で、明神丸も例外ではありませんでした。

好さんは今から50年前、復員してきた船員に話を聞き、爆撃を逃れたのち、現地でマラリアと栄養失調にかかったという明さんの最期の姿を知りました。

【明さんの弟 溝渕好さん(91)】

「(戦死の公報は)お母さんが受け取った。ぽろぽろ涙をこぼしてやな。映画行かへんか 芝居見に行かへんかって連れ歩いてくれるのはこの兄貴しかおれへん。風呂に入って一人で泣きよった」

伝え聞いた明さんの最期は好さんの中に今も鮮明に残っています。

しかし、ふるさとを出てからの明さんの足跡にはこれまで触れてきませんでした。

沈んだのは約7200隻 犠牲は6万人以上 知られざる船乗りの悲劇

第二次世界大戦中に沈んだ船はおよそ7200隻 亡くなった船員は6万643人にも上ります。

戦死者の比率は推計43%と陸軍(20%)と海軍(16%)をはるかに上回ります。

20年以上にわたり、戦没船と船員にまつわる資料を収集してきた岡村世紀一(せきいち)さんです。

【戦没した船と海員の資料館 岡村世紀一さん】

「写真に残っているのは沈んだ船の3分の1弱い。3分の2以上は写真が残っていない」

戦時国際法では民間船の乗組員は非戦闘員とみなされていましたが、実際には民間船も攻撃の的となりました。

【戦没した船と海員の資料館 岡村世紀一さん】

「民間の船を使って武器弾薬から兵隊さんまで運んだんです。軍事行動をしているので見つけ次第、沈める。まともな護衛もつけずに走らせて沈んで当たり前という感覚で使っている」

明神丸、そして明さんについて記録はあるのか。資料館が保存する名簿を見せてもらいました。

名簿には明さんは1945年3月25日に戦死したと記録されています。

航海の詳細な記録や写真さえも残されていません。

しかし、その足跡を辿る手掛かりは意外なところで見つかりました。

兵庫県の地域福祉課 恩給援護班です。

戦没者の家族に対する遺族年金の支給などのために独自で台帳を作っていたことが分かりました。

【兵庫県 地域福祉課 恩給援護班 渡辺麻美子さん】

「死没場所は先ほど戸籍にブーゲンビル島まで書かれていたんですけど、その先以降のエラベエタというところまで書かれていました。

昭和20年の3月25日に明さんは亡くなられているので戦闘が激化しているときに亡くなったのかなという想像ができます」

台帳そのものは非公開ですが、その内容は親族に限り閲覧が許されました。

そこには弟の好さんでさえ知らなかった事実がありました。

明さんの所属に「船工2R」と記されていたのです。

【兵庫県 地域福祉課 恩給援護班 渡辺麻美子さん】

「船舶工兵第二連隊のRかな?と思うんです」

広島県の宇品港を拠点に物資の輸送を担った陸軍の船舶部隊。

通称・暁部隊についてまとめた書籍には、明さんら船員の置かれた状況や「船舶工兵」についても記されています。

書籍:暁の宇品 船舶司令官たちのヒロシマ より

「船舶工兵隊(軍需品の揚搭を担当)船員は運命を船とともにし予測のできない危険に身を晒している 特に陸海軍徴傭船で第一線にある者は一層の危険が大。

それは戦闘する戦士以上のものであるとさえ思われる」

旧陸軍の船舶部隊の資料からある部隊を見つけました。

暁第六一七一部隊です。

明さんが戦死したブーゲンビル島のエレベンタ地区を拠点に補給輸送を行い、終戦を迎えました。

長い航海の末にたどり着いたのは激しい戦闘地域。

その中で明さんは病に倒れました。

故郷から遠く離れた異国の地で病と闘いながら何を、誰を、思っていたのか。

二十歳の誕生日を迎えた2日後の1945年3月25日、ブーゲンビル島で息を引き取りました。

兄に、生きていてほしかった。

兄と、一緒に歳を重ねていきたかった。

弟の好さんはその後、兄と同じ船乗りとなり、2人の子どもを立派に育てました。

【明さんの弟 溝渕好さん(91)】

「船買って乗りよるときが一番楽しかった。

兄貴、大きな船買ったぞって。

つらい目した、かわいそうやなと思うわ。 戦争だけは嫌やな」

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