
兵庫県神戸市中央区付近上空

神戸空襲証言

防空法について

大前治弁護士

青森空襲の悲劇

青森空襲の悲劇
神戸上空から降り注ぐ焼夷弾の雨。写真は、1945年6月5日の空襲をアメリカ軍が撮影したものです。もし、あなたがこの煙の中にいたとしたら、どのような行動をとりますか?防空壕や頑丈な建物、川に逃げようとしても、「逃げるな!火を消せ」と憲兵や警察に制止されたかもしれません。
「引き返して家を守れ!逃げてはいかん」
神戸空襲を記録する会がまとめた神戸空襲体験記には、当時の状況を記した証言があります。1945年3月17日、アメリカ軍による空襲で燃えさかる炎の中、逃げ回っていた女性は、「派出所の前で巡査がサーベルをぬき『引き返して家を守れ。逃げてはいかん』とどなっています」と当時の状況を振り返っています。
悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえる状況の中、なぜこのような無謀な指示がされていたのでしょうか?
防空法「逃げるな!火を消せ」
それは、防空法という法律です。1937年に施行された当時は、「訓練をしましょう。訓練の時は土地を提供しましょう。攻撃されないように夜間は暗くしましょう」という訓練や灯火管制に関するものでした。
しかし、1941年に法律が改正されて、「逃げるな!火を消せ」が法的義務に。
違反した者には、最大で懲役6カ月または罰金500円(当時の教員の初任給が月55円)。
また、防空法とは別に、防空行為を妨害した場合、死刑または無期、もしくは懲役3年以上という新たな法律「戦時刑事特別法」も1942年に施行されました。
防空法に詳しい弁護士は
大阪空襲訴訟の元弁護団の1人で、「逃げるな、火を消せ!戦時下トンデモ『防空法』」の著者である大前治弁護士に防空法について話を聞きました。
「防空法という法律は昭和12年(1937年)に制定されたものですが、最初から『逃げるな。火を消せ』ということが書かれた法律ではなかった。
最初は『空襲なんか怖くないからね。訓練すれば大丈夫だよ』と言われていたのに、終戦間近になると『空襲というものは怖いものだと。それでも命がけで恐れずに火に立ち向かえ』と変わっていくわけですよ。
『国民1億人がすべて防空の義務を負うんだと。逃げるなと。職場を守れ、まちを守れ。逃げた者は協力をしなかった者は処罰されるぞ』と」
当時のマスコミも世論の誘導に加担。空襲で逃げる人たちを警察や憲兵が制止しました。
「例えば、現在もある主婦の友。『家庭防空必勝號(ごう)』と書かれているんですよね。
兵隊に赤紙で取られて、まちに残っているのは子どもとお年寄りと女性。だから若い女性が防空の戦士として命がけで火を消せとなっていく。
『特に母親は子どもに惹(ひ)かれる気持ちを強く戒めねばならない』と書いてある。
つまり『子どものことなんて心配せずに火を消せ』と。赤ちゃんを連れて逃げろではなく、『赤ちゃんは他の人に任せて火に向かえ』と。
寫眞(しゃしん)週報という毎週政府が発行するグラフ雑誌です。
『私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を守ります』と。
空襲時の報道も取り締まり対象だった。真実を伝えない。
空襲の恐ろしさを伝えないということは国策だったんですよ。
それを破る新聞社やラジオ局があったらそれは国策に反するものだから徹底的に検閲をして真実の報道は許さない。
真実を伝えないというのは、逃げるな火を消せという防空法の重要な要素だったと思います」
青森空襲の悲劇 避難したはずの市民が呼び戻され犠牲に…
この防空法を振りかざし、多くの市民が犠牲になったのが青森空襲です。
1945年7月中旬、アメリカ軍は青森市内に「空襲予告ビラ」をまき、多くの市民が郊外に避難しました。
しかし、当時の青森県知事は、「逃げるのはもってのほか。こんなものは防空法によって処罰できるから断固たる処置をとる」と新聞社のインタビューで語りました。
青森市は、「7月28日までに戻らないと町会台帳より削除して配給を停止する」と通告。
配給を止められることは生活ができなくなることであり、町会台帳から削除されることは非国民のレッテルを貼られることで、子どもを含む多くの市民が市街地に戻らざるをえませんでした。
7月28日夜、アメリカ軍の空襲によって青森市民約1000人が亡くなったと推定されています。
大前弁護士は、現地での聞き取りや資料収集なども行いました。
「青森は私も現地取材をしまして、当時の青森空襲の直前に、当時の青森県知事の金井元彦知事が『逃げた者は処罰するし、逃げた者には今後食料配給を与えない』と命令をしたので、 田舎の方から青森市に戻ってきました。
戻ってきたその日に大空襲があって、『命からがら逃げましたけど、一緒に戻ってきた姪っ子や甥っ子は死んでしまいました』とそういう体験も聞いたんですよね。
当時の青森県民にとってはものすごい重圧だったと思うんですよ。
当時、食料配給を停止するというのは食べていくこと生きていくことができないということですよね。
食料配給というのは、隣組で行列を組んで配るというもので、『あなたは空襲から逃げた人だから、あなたには食料を与えないよ』ということを、町で顔も名前も知り合っている人たちの中でそういうことをさせるのが食料配給の停止ですよね。
『あいつは空襲から逃げたやつなんだ。非国民なんだ。食料を与えない』そしてその人がすぐ隣近所に住んでいて。
顔も名前も知っている。この人がもう飢えて死んでしまうのもそれでもいいんだ。
それが食料配給の停止ということなんですよ。それだけのことをやったのが、青森県の出来事だということになると思います」
大前弁護士
「私たちが戦争体験を語り継ごうといった時に、空襲で苦労された方がおっしゃるのは、『この空襲で空襲警報のサイレンがなって爆弾が落ちてきたんです。
火の海の中を逃げてきたんです。戦後は大変苦労しました』と。
これが戦争体験として語り継がれるんですよ。
でもね、私たちやっぱり戦争を知らない世代だからこそ逆に、当時の戦争体験者の方が知らなかったことをしっかり掘り起こして語り継いでいくことが大切だと思っています」