ゆあぺディア~私とセンバツその⑥~

1992(平成4)年、第64回大会。私は高校3年生になる春を迎えていました。
いよいよ自分自身と同年代の選手が活躍する大会、私は中学時代の親友とともに準々決勝の観戦へ。
その日は朝からずっと1日、雨・雨・雨。

お目当ては第2試合登場のPL学園。1987(昭和62)年の夏以来となる甲子園でした。
相手は好投手・吉田道(のちに近鉄入り)を擁する神奈川・東海大相模、こちらは17年ぶりのセンバツ。応援していたのはPL学園ですが、ペナントはどちらも買いました(笑)

試合前、先発投手が東海大相模は吉田投手、PL学園は松井投手と発表され、まずそこで私はビックリしました。この大会、PL学園は、背番号「10」の2年生・児島投手が2試合連続の完投勝利を収めており、当然準々決勝もと思っていました。しかし、フタを開ければ、背番号「1」の松井投手。
当然、親友との会話は「この大一番で大会初登板の投手を先発とは、さすが名将・中村監督やなー」
ただ、この采配は結果的には裏目に出てしまいます。2回・3回に立て続けに失点し、松井投手は3回途中でマウンドを降ります。そのリードを吉田投手が守り切り、4安打完封勝利。PL学園はベスト8で涙をのみました。

「あの1番の投手、緊張したのかなー、惜しかったなー」再び親友との会話。

“あの1番”、すなわち「PL学園の松井投手」。この日は、ずっと頭に残っていました。のちに、西武・楽天・そしてメジャーリーグで活躍した松井稼頭央(現・西武二軍監督)さんであったと気付くのは、それから数年後のことです。

この試合に出場していたPL学園の選手でもう一人、その後、プロ野球で活躍する選手がいました。
今岡誠(1997年阪神にドラフト1位で入団、現・ロッテ二軍監督)さんです。
この大会は、全試合「3番二塁」でフル出場でした。でも、ごめんなさい、覚えていません(笑)
記憶にあるのは「1番の松井投手」「雨」だけ(笑)あと、吉田投手のストレートかな。
「確かに、吉田のストレートは本当に速かった」(今岡さん談)そうです。
でもそれ以上に印象に残っていることがあるとのこと。

以下は、私と今岡さんの会話です。
「印象に残っているのは、やっぱり松井やな」(今岡さん *以下「今」)
「松井?PL学園の後輩の松井投手かー、準々決勝で初先発やったもんね」(湯浅 *以下「湯」)
「いやちゃうで、違う松井や」(今)
「違う松井?」(湯)

今岡さん自身、「毎年夏になると、友達と朝から準々決勝をすべて一塁側のスタンドで観戦するのが楽しみだった」と言うほど、高校野球が大好きな少年でした。

3年のセンバツで初めて手にした甲子園キップ。
入場行進が終わり、スタンドで開幕戦を観戦。余韻を噛みしめている時でした。
「ガツン」
その打球はあっという間にライトのラッキーゾーンへ、いや違います、
ラッキーゾーンは前年の秋に撤去されました、打球はライトスタンドへ。
鮮やかな金属音を残したのは、石川・星稜の松井秀喜(のちに巨人・メジャーリーグで活躍)選手でした。
そう、今岡さんが話す「松井」とは「星稜の松井選手」のことです。

この大会注目のスラッガーは開幕戦に登場。1回の第1打席はフォアボール、迎えた3回の2打席目での一発でした。
「あのホームラン見て、やっぱり松井は本物やわ・・・と思った」
まさに衝撃の一打だったようです。
松井選手は5回にも豪快なアーチを放ち、センバツ史上初の開幕戦2打席連続本塁打を記録しました。

「相手は宮古高校やったやろ?」
はい、そうです、今岡さん。さすが、相手チームも覚えているんですね!
星稜に敗れた岩手・宮古高校、30年ぶりのセンバツでしたが、残念ながら勝利はなりませんでした。
その宮古のペナントはこちらです。

それにしても、この大会はホームランがわずか7本(ラッキーゾーンがあった前年度は19本)でしたが、
そのうちの3本を一人で記録した(2回戦の堀越戦でも1本塁打)松井選手は私にとってもスーパースターです。

さて、雨の準々決勝―。その星稜は第1試合で奈良・天理に逆転負け、第3試合では東京・帝京が接戦をモノにしました。そして、第4試合、最後はナイターになりました。地元兵庫の育英と埼玉・浦和学院の試合。センバツ初出場の浦和学院が4-2で競り勝ち、ベスト4入りを決めました。

あれから28年・・・。森山投手の好投も実らず、育英が負けたのはハッキリ覚えていますが、それよりも雨です(笑)
いまだに、ぬかるんだグラウンド、スタンドに咲く傘の花、ナイター照明に映える育英のクリーム色のユニフォーム・・・、目に焼き付いています。

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ゆあぺディア~私とセンバツその⑤~

1991(平成3)年、第63回大会。私は高校2年生になる春を迎えていました。
クラブ活動、いわゆる“部活”はしておらず、センバツの時期は、ハイライト番組をすべて録画しては見直し、時には直接甲子園に行き、ペナントを4~5枚買って帰るという“高校野球ファン”と化していました。
同年代の選手のプレーにただただ感嘆する日々、10日という大会期間はあっという間に過ぎ去っていきました。

大阪桐蔭高校の春夏通じて初の甲子園はこの年のセンバツだったんです。
もちろん、ペナントも買いました。(写真は夏のものも含む)

センバツコラム~その④~近大付の後藤投手、北陽の寺前投手のフォームをいまだに覚えていると記しましたが、この大会だと、間違いなく天理高校の谷口功一投手(のちにドラフト1位で巨人に入団)ですね。前年の夏、下級生ながら全国制覇にも貢献。今度はエースとして、夏春連覇を期待されていました。左足を上げて、左手首を少し曲げてから体重移動をしていく・・・2年夏よりも左足を上げる高さを3年になってからちょっと変えたな、より高くしたな、でもテークバックを小さくしたのかな?おー、フォーム改良したんやテレビを見て“一人解説”。190㎝の長身から投げ下ろすダイナミックなフォームがとにかくカッコよかった。いつか、甲子園で直接見たいと思っていました。

しかし、天理高校は2回戦で敗れ、早々と大会から姿を消します。谷口投手の夢を砕いたのは、この大会で旋風を巻き起こす長野の古豪・松商学園でした。1回戦で愛工大名電(3番投手はイチロー選手)に競り勝ち、次戦で上田佳範投手(のちにドラフト1位で日本ハムに入団、現DeNA外野守備走塁コーチ)が強打の天理打線をわずか4安打に抑え完封勝利。準々決勝では大阪桐蔭、準決勝では国士舘も完封、3試合連続完封という離れ業を成し遂げます。惜しくも65年ぶりの優勝こそ逃したものの、間違いなく上田投手はこの大会の主役でした。

谷口投手を見られなかった春でしたが、奈良県からは2校が出場、もう1校は奈良県立奈良高校でした。
これが、春夏を通じて初の甲子園。私が公立高校に通っていたこともあり、気になる存在でもあったので、友人と甲子園へ。群馬・桐生一(今や全国の常連校もこの時が実はこちらも春夏通じて初の甲子園)との対戦、奈良高校は守りのミスも目立ち、6-10で敗れました。甲子園初勝利はならなかったものの、白地に「奈良」と大きく書かれたユニフォームがとてもさわやかでした。
奈良高校は、91年センバツ以来甲子園出場はありませんが、昨年の秋は県大会でベスト4に入り、その後、奈良県の21世紀枠推薦校に初めて選出されました。いつか、また甲子園で躍動する姿を見てみたいです。

さて、時は流れてこの年の夏―。センバツの“無念”を晴らすため(?)今度こそはと、天理の試合を見に行きました。2回戦の佐賀学園戦、場所は三塁側、天理ベンチの真裏。真正面から谷口投手のフォームを見るために。
「キーン」
それは、感慨にふけっている私の思いを切り裂く音でした。佐賀学園・若林隆信選手(のちに中日に入団)の打球音。どよめくスタンド。視線はあっという間にライトのラッキーゾーンへ。見事な逆転3ラン本塁打でした。試合は、そのまま、3-1で佐賀学園が勝利。この試合が、谷口投手にとって、高校生活最後の試合となりました。果たして、谷口投手が打たれた瞬間どんな表情だったのか・・・。確かめるために、帰宅して擦り切れるほど「熱闘甲子園」を見たのは言うまでもありません。実況は武周雄アナウンサーでした。

それにしても・・・、・若林選手の打球音、弾道、そしてスタンドのどよめき・・・、一瞬にして球場の空気が変わりました。いまだに目に焼き付いているシーンです。

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ゆあぺディア~私とセンバツその④~

1990(平成2)年。入場行進曲は相川恵理さんの「約束」でした。大阪では「国際花と緑の博覧会(通称:花博)」が開かれた年。私は高校生になりました。その③でも触れましたが、前年の61回大会は受験勉強をしながらのテレビ観戦が多かったため、晴れて、堂々と(笑)62回大会は甲子園に行きました。

~♪金剛山はほのぼのと 明けて生駒も目ざめたり♪~

すみません、この年のセンバツを思い出していると、頭の中であるチームの校歌が流れてきました。
それはさておき、高校受験も終わり、どうせなら大会のハイライトになるような試合を見に行こうと友人と相談して、生まれて初めて、高校野球の準決勝へ。この日は、大阪代表が2校登場するという非常にぜいたくな一日で、第1試合が近大付―山梨・東海大甲府、第2試合が北陽―愛媛・新田でした。近大付をまずは応援しようということで、一塁側アルプススタンドで観戦しました。

試合は終盤に大きく動き、8・9回で3点差を逆転された近大付。9回裏も2アウトランナーなし。
初の決勝はお預けか・・・諦めた瞬間でした。エラーと安打で2アウト1・3塁に。そして、打者・梶原選手の一二塁間へのゴロ、まさに息を呑む私。
「ウォー!!」次の瞬間、アルプスは地鳴りのような大歓声に包まれました。タイムリー内野安打で同点!まさに興奮のるつぼに!
さらに、その後、延長13回裏に東海大甲府のエラーで近大付がサヨナラ勝ちを収めました。
ちなみに、この時の東海大甲府のエースは榎康弘投手。のちにロッテへ入団、1994(平成6)年には一軍で7勝をあげています。現役引退後はロッテの広報、現在はチーフスカウトをされていますが、広報時代にご挨拶に伺った時は心の中で「うわー、あの時の榎さんや―。すごい!」とつぶやいていました(笑)

最終的にはこの大会で初優勝、90年代初のチャンピオンになる近大付。大会中、何度も校歌を聞いたので、すっかり覚えてしまいました。先程のものは、そう、近大付の校歌の冒頭部分です。以前、「熱血!タイガース党」に阪神・藤井彰人選手(現・一軍バッテリーコーチ、近大付OB)が来られた時、本番でいきなり校歌を歌ったらビックリしていました(笑)
そういえば、一度、高校サッカーの取材でも近大付に行きました。正面玄関にはセンバツの優勝記念トロフィーがあり、1人興奮していました(笑)さらにさらに、その後の高校サッカーの全国大会中継で偶然にも1回戦の近大付の応援席リポートを担当し(第90回大会)、岩手・盛岡商に勝利した後の校歌斉唱を関係者とともに大声でするということもありました。なぜか、そらで歌えるという(笑)

話を1990年に戻しましょう。準決勝の第2試合、一塁側アルプスは初出場ながら決勝進出を目指す愛媛・新田。本来なら、北陽のアルプスへと思っていたのですが、1試合目が延長13回までもつれたこともあり、そのまま観戦しようということに。また、新田の当時のユニフォームが、私の中学の野球部と全く同じということもありました。上下が白のユニフォーム、アンダーシャツも真っ白(今はアンダーシャツのみ青のようですが)。何となく身近なチームに思えたんですよね。
いざ試合が始まると、第1試合以上の熱戦に。何と、今ではもうあり得ない延長17回で決着がつくという試合。気が付けば、すっかり日が暮れていました。新田・池田選手の見事なサヨナラホームラン、今でも音も弾道もハッキリと覚えています。友人はかなり疲労困憊でしたが(笑)私は1日で30イニング、6時間16分も高校野球が見られて、こんなに幸せなことはないとご満悦でした。最高の一日でした。

あれから30年・・・。
いまだに、近大付・後藤投手のシンプルな投球フォームと北陽・寺前投手のダイナミックな投球フォームは目に焼き付いています。

余談ですが、この年の夏、大阪を制したのは、公立高校の渋谷、春夏通じて初めての甲子園でした。
近大付も北陽も決勝に残れず・・・、やはり大阪の頂点に立つ厳しさを痛感したものでした。

ちなみに、その時のペナントがこちらです!

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ゆあぺディア~私とセンバツその③~

昨年のセンバツは東邦高校が優勝しました。「平成最初と最後の優勝」ということで大いに話題を呼びましたよね。
平成最初というと、1989年。当時、私は中学3年生になる春を迎えていました。
ということは・・・、そう、高校受験に向けていよいよ本腰という時期。
ただ、センバツの時期は勉強に身が入らず(笑)友人と一緒に甲子園にも行きました。
大会5日目の1回戦、北海道・東海四―滋賀・八幡商の一戦。八幡商が終盤追い上げるも8-10で敗れた試合です。近畿代表ですし、八幡商を応援していたんですけど、惜敗。
トボトボと帰路につこうとした時、運命の出会いが!

そうです、高校野球のペナントです。偶然立ち寄った売店で見つけた一品。以前にも書きましたが、当時は大阪に住んでいましたし、元木選手のカッコよさに憧れていたので、迷わず上宮にしました。
あれから30年以上が経ちましたが、私は以来、毎年ペナントを買い続けています。
ある1年を除いて・・・。それはまた書きます。

さて、その上宮ですが、私の期待通り、決勝まで進みます。相手は、冒頭に記した愛知・東邦でした。
4月5日といえば、学習塾の春期講習真っ只中。その日も夕方から授業でしたので、自宅のこたつに入って、勉強をしながらテレビ観戦をしていました。試合は、延長10回裏に東邦が2アウトランナーなしから逆転サヨナラ勝ちを収めます。最後にライトの岩崎選手が転々とするボールを追いかけるシーンはあまりにも有名ですが、この試合は実に引き締まったいい試合でした。

上宮の守備は本当に堅かったんですよ。決勝の最後のプレーまでわずか5試合でエラーが1個。
9回裏も1アウトからライト岩崎→セカンド内藤→ショート元木→サード種田の素晴らしい中継プレーで三塁打を阻止しました。延長10回表、岡田選手のタイムリーで勝ち越し、上宮の初優勝を確信しましたが・・・。それが野球ですね。でも、リアルタイムでこの名勝負を見られたのは今となればいい思い出です。

そういえば、VHSのビデオデッキという強力な武器が私の手元に届いたのが1988(昭和63)年。
その翌年のセンバツですから、関西ローカルの深夜のハイライト番組はすべて録画。決勝戦なんて大げさでも何でもなく、擦り切れるほど見ました。

あの大会から31年・・・。
いまだに、決勝の延長10回裏、東邦がノーアウト一塁からバスターエンドラン、上宮が見事な好守でダブルプレーを完成、一瞬にして2アウト!というシーンは目に焼き付いています。私が今まで見てきた中で一番印象に残るダブルプレーです。

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ゆあぺディア~私とセンバツその②~

「松田くん、すごいなあ」という兄の言葉に、最初は戸惑うばかりでした。

1985(昭和60)年、鮮明に残るセンバツの記憶。小学5年生になる春。
「松田くん」とは報徳学園エース、松田慎司投手。

聞くと、兄とは西宮市内の小学校で同級生だったとのこと。
一緒に遊ぶことはあまりなかったようですが、自宅の前で素振りをする日課は近所では有名だったそうです。

ちょうどテレビでは、57回大会の2回戦、神奈川・横浜高戦が生中継されていました。
その日から「松田くん」は私の“身近な”憧れの選手になりました。

1回戦は青森・弘前工に7-6、2回戦は横浜に10-2で勝利し、ベスト8に勝ち進んだ報徳学園。
準々決勝の相手は、強豪・帝京(東京)でした。

この時、私は風邪を引いていて、自宅近くの小児科に行っていましたが、偶然にもセンバツの中継が流れているではありませんか!

食い入るように見つめていると、初回に2点を先制した報徳学園が3回に一挙6失点。
守備のミスなどもあり、「松田くん」は試合の途中で降板となりました。
「あーあ」とがっくりうなだれていると、受付の方に言われました、
あのーすみません、患者の方ですか?テレビを見るところではありませんよ」。
発熱していたはずなのに…、何とも恥ずかしい気持ちでこのあと、受診したのは言うまでもありません。

社会人の西濃運輸を経てプロ入り、日本ハム・ダイエー・ヤクルトと3球団で活躍し、現在はヤクルトでスカウトをされている松田さん。現役時代に、緊張して挨拶に伺ったことは忘れられません。今では、お会いすれば色々なお話をして頂ける間柄になりましたが、いつまでも憧れの「松田くん」であることに変わりありません。

あれから35年・・・。
当時の雑誌に掲載された横浜戦完投勝利後の「松田くん」のガッツポーズは、いまだに目に焼き付いています。

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ゆあぺディア~私とセンバツその①~

私の一番古いセンバツの記憶は、1984(昭和59)年。
当時、小学4年生になる春でした。

兵庫県西宮市に生まれ、小学校入学と同時に大阪へ。
ですから、近畿勢、特に大阪代表を応援していました。

第56回大会、優勝候補は2年生のKKコンビを擁するPL学園。
桑田投手、清原選手の活躍に野球少年だった私は魅了されました。
といっても球場で試合を見た記憶はなく、テレビ観戦のみでした。

我が家はどちらかというと、夏は現地、センバツはテレビ観戦が主でした。
ちなみに、高校野球を甲子園で見た一番古い記憶は、1982年。大阪・春日丘高校が神奈川・法政二高に負けた試合です。父に連れられ甲子園で見ました。まあ、連れていかれたという方が正確かもしれませんが(笑)まだ、KK時代到来の前夜ですね。

さて、絶対PL学園が優勝、夏春連覇と信じていた決勝戦。
しかし、東京代表で初出場の岩倉高校に0-1で敗れ、準優勝に終わりました。
最後の左打者のセンターフライはテレビで見た瞬間、「やった同点ホームランだ!」と立ち上がったのを今でも覚えています。悔しかったなあ・・・。

そういえば、昨年、関西学生アメリカンフットボールの取材で偶然、岩倉高校野球部出身の選手に出会いました。思わず、私は身を乗り出し、
(私)「君が生まれるはるか昔、岩倉高校ってセンバツで優勝したの知ってる?」
(選手)「もちろん、知っていますよ」
(私)「すごいな、勉強熱心やね」
(選手)「いや、部室に決勝戦のビデオが置いてあるんですよ。それを見ました」
(私)「へー、そうなんや!」
アメフトの取材そっちのけで、高校野球の話に夢中になってしまいました(笑)

あれから、36年・・・。
でも、いまだに、優勝を決めた瞬間の岩倉高校・山口投手が両手を広げたガッツポーズは目に焼き付いています。


湯浅野球少年

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器用かつ大胆

「カラフルやなあ」。
最初はそんな印象。

黄色茶色薄いブルー
「でも、それ、グローブ?」
次にそんな印象。

「え、それ自分で結んだん?」
聞けば、びっくりの印象。

元オリックスバファローズ、近藤一樹投手。

縁あって、色々お話させて頂く機会が多い。
とある日、神戸にファーム取材に行った。ベンチでバッタリ出会って、グラブを見た時のこと。
前記のやりとりがあった。

練習用のグラブとはいえ、紐を全部、自分で結んだのだ。
正確に言えば、結び直した。

元々は違う紐がついていた。
そこで、ちょっと遊び心が生まれた。
「何か違う色にしたいな・・・。水色なんかいいなあ。」
メーカーさんに取り寄せてもらって、自分でやり直した。
「昔からグラブを分解するの好きだったんですよ(笑)」

いやいや・・・。私もグラブを持った経験があるが、
そもそも取り外そうという発想自体が思い浮かばない。
私は不器用だから絶対無理だ。
それをプロ野球選手がする。純粋にすごい。
「2~3メートルくらいの紐ですね。そんなに時間はかからなかったですよ」
手慣れたものだ。

元大阪近鉄バファローズ、近藤一樹投手。
2001年、夏の甲子園の優勝投手。日大三高初優勝の立役者。
大阪近鉄にとって最後のVとなったその年、ドラフト7位で指名された。
もはや、そのドラフトで指名された8選手で現役のNPB選手は彼以外いない。
それどころか、大阪近鉄のユニフォームを着た現役選手そのものが
数少ない(現時点で確定しているのがマリナーズ岩隈、ヤクルト坂口と近藤のみ)

阪急と南海はアナウンサーとして仕事をした経験がない。
でも大阪近鉄はキャンプ取材にも行かせてもらったチーム。
何か、すごく寂しい。
一年でも長く、野球している姿を見たい。
そして、練習グラブが、一層鮮やかになるのを見たい。

「手先と違ってピッチングは大胆ですから(笑)まあ、見ててください!」
東京ヤクルトスワローズ、近藤一樹投手。
自身16年目のシーズンに向けて、活躍のイメージは出来上がっている。

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2015年の縁

初めて“少年”に出会ったのは2009年の夏。
少年は背番号2ケタの高校1年生、甲子園を夢見る高校球児だった。

「いい1年生がいますよ。“華のある”投手ですわ」
現在は東洋大牛久監督の堀口監督(当時、東洋大姫路高校監督)は私にそう言った。

実際、話を聞いてみて、その片鱗は見えた。
ひょっとしたら・・・。

それから夏のたびに、取材をした。

2011年、“少年”は高校3年生になった。
雑誌には“プロ注目の右腕”と書かれるまでになった。

「マウンドでの立ち姿が綺麗なんですよね、彼は」
現在も東洋大姫路高校で指揮を執る藤田監督は
会うなり、私にそう言った。

高校野球の指導者は、大器の予感を持っていた。

“少年”は、その年、史上初となる夏の兵庫大会決勝再試合を制して
ついに甲子園の土を踏んだ。

「あの時、もし県の決勝で負けていたら、今の僕はないと思います、
人生のターニングポイントでした。勝って、甲子園に出て、もっと高いレベルで野球をしたいと思いました。だから、大学でも4年間頑張れたんです」

“少年”は“大人”になった。
大学時代、肘の手術も経験した。何度も挫折を味わった。それでも、夢を決して諦めなかった。
「昨年の今頃は、大スランプで毎日不安でした。でも一分一秒を無駄にせず、全力で毎日を過ごしました」

2015年秋、夢は・・・叶った。
“少年”から“大人”へ―。
東洋大姫路高校、東洋大学出身、東京ヤクルトスワローズ ドラフト1位 原樹理。
先日、4年ぶりに彼と再会した。
「高校時代は、70キロくらい。今は80キロ近くになりました」
大きくなっていたのは、体だけではない。
喋り方も喋る内容もすべて、“進化”していた。

15歳の最初の出会いから6年。
素敵な“縁”に感謝したい。

PS.高校3年の夏、甲子園ベスト8に終わった東洋大姫路。
藤田監督は、監督人生で「記憶にない」ことをしていた。
負けた後、そっとボールを原に渡していたのである。

そこに書かれていた言葉―それは・・・
「日本一のピッチャーになれ」

原は、そのボールを間もなく入る寮で飾るという。

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信じてます

「前回よりと立場も代わって、本当に期待してるんですよ」
仕事仲間から最近聞かれた言葉だ。
私は前回からずっと期待している。
岡崎慎司―。
自身2度目のW杯。もう間もなく開幕を迎える。

このコラムでも何度か書いているが、初めて出会った時は“普通の高校生”だった。
サッカーノートの表紙に「世界NO.1ストライカーになる」とあっても誰も信じてなかった。
それが今や、押しも押されもせぬ代表選手だ。

本大会前の強化試合、点を取れなかった。
顔にケガもした。
マインツと代表で求められるものは同じでも、チームのサッカースタイルすべてが同じというわけではない。
「それでもブレないですよ」
岡崎慎司がブレない、そう“ウラを狙い続ける”。この宣言を貫いた時―2大会連続のW杯得点が見えてくる。

ブラジルに行っても、兵庫を、母校を忘れない。
高校時代の親友に尋ねてくる最初はいつも「滝二どうなってる?」

今年のインターハイ、決勝まで勝ち残った滝川第二だが、決勝戦、神戸弘陵に0-3で敗れた。
「兵庫で生まれて、高校3年間で本当に素晴らしい経験をさせてもらったから今がある。それを伝えたい」
常々話している言葉。
母校は残念ながら全国への切符を逃したが、初戦は現役サッカー部員全員が集まって先輩を応援する。

兵庫のために―。ニッポンのために―。

岡崎慎司を信じてます!

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和衷協同(後編)

13年ぶりの選手権となった神戸弘陵。
結果は、2回戦敗退。
沖縄・那覇西戦、0-3から1点差に追い上げる展開。
ベンチもピッチの選手も、そして応援席が一体となって戦う姿に
負けはしたが、ベンチリポートをしながら感動していた。

「応援席に行くと、もうだめなんですよ」
4年前に神戸科学技術高校で選手権に出場した
当時の主将・洞ケ瀬太一さんと副主将・古澤智也さんは、ともに口を揃える。
「負けて、悔しいと思うと同時に、あー終わったなって。整列までは涙を我慢できるんです。
でも、その後、応援席の近くに挨拶に行って、試合に出られなかった仲間の顔を見ると、もう無理です」

今回の神戸弘陵は部員121名の大所帯。メンバー外の3年生だけでも21名いる。
試合に敗れた選手たちが応援席に向かうと・・・、かつての高校サッカーの先輩と同様だった。

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そして、最後のロッカールーム。

「涙のロッカールームにはせーへんぞ!」
声の主は谷監督。
私も長年、高校サッカーに携わらせて頂いているが、これほど、早く身支度をして
引き上げたチームはなかったと思う。

全員が向かった先は、スタジアムの入り口。
そこで待っていたのはー。

神戸弘陵の応援団だった。
メンバーに入れなかった96名だった。

チームの解散式は全員で。試合に出た選手だけ、メンバーだけじゃない。
まさに「和衷協同」の精神。

「負けは悔しいけど、君たちがチームに残した財産は果てしなく大きいものでした。
3年生ありがとう。3年間お疲れ様でした」
本気で全国の頂点を狙っていた。今回夢は叶わなかった。
でも一丸で戦えた。
みんなの前で静かに話した谷監督。そこに涙はなかった。

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今ではすっかり、私のお気に入りの言葉になった「和衷協同」。
この気持ちを大切に、今年も1年間、真摯に仕事に取り組んでいきたい。

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