
西宮市仁川百合野町の地滑り被害

サンテレビ 那須惠太朗

当時の取材メモ

KBS京都の勝又昭記者(右)

勝又さんが描いた絵本

手を合わせる那須(仁川百合野町の慰霊碑)

2025年1月17日 ボランティアグループゆりの会提供
シリーズ 証言1.17
阪神淡路大震災で生かされた自分、そして亡くなった仲間。震災から30年を機に、記憶を掘り起こしたサンテレビ社員の証言です。
※阪神淡路大震災…1995年1月17日午前5時46分に発生 死者6434人 行方不明者3人
亡くなったアルバイト仲間ではないか…
阪神淡路大震災から30年、サンテレビは、当時の取材経験をまとめた特別番組を放送しました。
西宮市仁川百合野町。阪神淡路大震災による地滑りで34人が亡くなりました。泣き崩れる遺族。そして搬送される人。サンテレビの番組を見て、搬送されている映像は、大学時代のアルバイト仲間ではないかと気づいた社員がいました。
サンテレビ社員
「30年経ってね。ようやく分かったっていう」
震災から30年。素材テープをもとに当時の記憶をたどりました。
当時26歳 家族を連れて会社に向かった
サンテレビ総務局長の那須惠太朗(56)。震災当時はディレクターで会社(当時は神戸市中央区のポートアイランドに本社)の近くに住んでいました。
1995年のインタビュー 当時26歳の那須惠太朗
「2段ベッドの上で寝ていたが、床板が割れて(自分の体が)下に落ちた。とにかく揺れと落ちてくるものと、落とされる体とで意識が混乱して。マンション倒れるなとそれだけを強く願いました」
避難先の小学校が閉まっていたため、1995年1月17日午前6時半、家族を連れて出社しました
サンテレビ 那須惠太朗
「とりあえず会社の1階に家族を残して、会社(11階の報道部)に上がろうとしたが、エレベーターが動いていない。階段を使って上まで上がっていったんですが、自動販売機は半分倒れかかっている。かき分けてかき分けて行った」
記者経験があった那須は、取材した情報をまとめ、午前8時20分ごろ、スタジオのアナウンサーにメモを渡しました。
1995年1月17日放送 アナウンサー
「JR阪急阪神山陽電鉄神戸市営地下鉄ポートライナーなどすべて停止しています」
サンテレビ 那須惠太朗
「その場にあった鉛筆で殴り書きのように書いていったんですけども、交通機関が止まっているとか、高速道路が倒れている、通行止めがあるみたいなことをメモしていった」
その後、当時ポートアイランドにあった兵庫県警本部の仮庁舎に向かい、被害状況をリポートしました。
1995年1月17日放送 那須電話リポート
「西宮伊丹間で新幹線の高架が落下し不通になっております。その他、鉄道関係でもほとんど不通です」
サンテレビ 那須惠太朗
「県警もやはり人が集まらない、情報も入ってこない状況が続いていて、彼らもすごく苦労していたのを目の当たりにしました」
しばらくして、那須のもとに訃報が。大学時代のアルバイト仲間の斉藤弓子さん(24)が亡くなったと友人から連絡が入りました。その30年後、サンテレビの特集ではっとする映像を見ることになります。
サンテレビ 那須惠太朗
「もしかしたら自分の友人じゃないかということを、説明のナレーションとかテロップを読んで気付きました」
1995年1月19日インタビュー(斉藤さんの親族)
「家族3人が(生き埋めに)。娘(弓子さん)の婚約者がここに来ています。きょうは絶対に出てくるって」
斉藤さんは震災のあった1月に結婚する予定でした。婚約者の仕事の都合で半年延びて実家で過ごしていた時に両親とともに生き埋めになったそうです。
サンテレビ 那須惠太朗
「さっきね、運ばれていた映像のご遺体がもしかしたら自分の友人だったかもしれないと思うとね、なかなかやっぱり悲しいものがある」
撮影者に会うため京都へ
この映像の撮影者に会うため、京都に向かいました。KBS京都の元カメラマンで、サンテレビの取材応援として被災地を取材した勝又昭記者です。
KBS京都 勝又昭記者
「これは私が描いた絵本で、以前取材したときの資料ですね」
勝又さんは、自分の子どもに震災を伝えようと取材経験を1冊の絵本にまとめました。
KBS京都 勝又昭記者
「いなくなった方々の名前を叫びながら。本当に叫ぶというか。本当はこの気持ちが何て言うんですかね。今まで自分たちが住んでいたまちが本当に土砂に埋まってしまったということで信じられないという形だと思う」
サンテレビ 那須惠太朗
「絵本に書かれている斉藤さんのご一家のお嬢さん、弓子さんが私のアルバイト仲間だったんですわ」
バイト先の同僚だった斉藤弓子さん。持ち前の明るい雰囲気が印象に残っているそうです。斉藤さんが亡くなったことは30年前、サンテレビでも放送で伝えていました。
1995年1月17日 サンテレビの放送
「お嬢さんの弓子さんがその当時いらっしゃったということで、お嬢さんの弓子さんの婚約者も長野の方から」
当時県警などを取材していた那須はテレビの放送を見る余裕はなく、30年経ってから素材テープを確認し、斉藤さんや家族の映像が存在したことに気づきました。
1995年1月19日【親族が弓子さんの妹に状況を語る】
「弓子さんとお母さんが折り重なっている。さっき搬送されたのはお母さんやった。あとはお姉ちゃん(弓子さん)や」
サンテレビ 那須惠太朗
「ちょうど私も阪神淡路の取材の対応スタッフに入っていたんですけれども、なんと言えばいいかな。私のところにはあまり情報がすぐ入ってこなかった印象があって、友人の報を友達から教えてもらっていうことで知った」
震災から9日後の1月26日、阪神電車が青木・梅田間の運転を再開し、神戸と大阪がようやくつながりました。この日、原付バイクと電車を乗り継いで大阪の寺に向かい、祭壇に手を合わせました。
サンテレビ 那須惠太朗
「10日後くらいに現地に行ったんです。その時の手帳なんですけども」
祭壇には変わらない笑顔の斉藤さんと、ご両親の写真が並んでいたそうです。
サンテレビ 那須惠太朗
「改めて映像を時が経って見直していくと、こういう新しい発見があって、新たに伝えられることもあるなということをすごく思いました。ありがとうございます」
KBS京都 勝又昭記者
「私も無我夢中で記録っていう映像の記録ということを半分頭に置きながら撮影はしていましたね。那須さんともご縁ができたような形で、30年経ってつながったということもあると思うので、よく戦争で伝えていかなきゃいけないと言われますよね。その意味がそういうところにあるのかなと」
震災から30年。被災現場は整備されて公園となり、地すべり資料館や慰霊碑があります。震災前は資料館の辺りに斉藤さんの自宅があって、30年を機に手を合わせに来たそうです。
サンテレビ 那須惠太朗
「ここに来なきゃと思って1度来ました」
Q資料館は1997年にできていたがここに来るのは抵抗があった
「そうですね、何か気持ち的に引っかかるところがあったんだと思いますね。足が向く感じではなかったです」
その一瞬が命を分けるなら、せめて悔いのないように生きよう。祭壇で手を合わせたあの日からそう思うようになったそうです。
サンテレビ 那須惠太朗
「ここに来ると友人のことを思い出すというのは、その亡くなった友人は結婚する予定があって、それがたまたま延びてここにいて被災してしまった。お亡くなりになったということなんですけど、当時私は何もそういう予定がなくて、それでも地震にあって家の中はぐちゃぐちゃになったけど、生き延びたと。この差は何なのだろうということはすごく自分の中で重たい重しのようになって、生かされているということは、やっぱり生きている以上は何かしないといけないと強く思った。『後悔するぐらいならなんでもやる』と、自分の気持ちも変わっていって、行動をしていくようになった」
慰霊碑の前では、毎年1月17日午前5時46分に地元の住民や小学生らが集まり、亡くなった34人を追悼しています。犠牲者を悼み、震災を後世に伝えるために。