【証言1.17】崩れたセットなどが散乱したスタジオで放送を決断した元報道部長の証言

  • X
  • Facebook
  • LINE
  • 元報道部長 八田慎一さん

  • 足の踏み場もないサンテレビ本社

  • サンテレビ社員 那須惠太朗

  • 神戸市内は多くの建物が倒壊

  • 照明やセットが崩れたスタジオ

  • 元アナウンサー 藤村徹さん

  • 元サンテレビ記者 門前喜康さん

  • 井田カメラマンが撮影した映像

  • 八田家の家族新聞「八田タイムズ」

2025年で阪神淡路大震災から30年。

照明やセットが崩れたスタジオで特別放送を決断した元報道部長の証言です。

これまで多くを語ってこなかった元報道部長の思いに迫ります。

サンテレビのあるポートアイランドは孤立

6434人の犠牲者を出した阪神淡路大震災。

当時サンテレビ本社があったポートアイランド周辺は、液状化現象のため道路が寸断。

サンテレビ本社は建物の倒壊を免れたものの神戸大橋は通行止めとなり、局は完全に孤立しました。

着の身着のままパジャマ姿で本社に駆け付けた人がいます。

元報道部長 八田慎一さん

「もう何しろ行かなければ 行かなければ」

パジャマ姿のままで会社へ向かう

自宅のある神戸市垂水区で激しい揺れに襲われます。

八田さんの妻 佳子さん

「ダウンのジャンバーを上から着て即1分も経たないうちに家出ました。5時47分くらいには家を出ていたと思います」

元報道部長 八田慎一さん

「揺れはすごかったですけど家は建っていたからね。犠牲者はそんなにはいかないだろうと」

宮崎出身の八田さんは、大学時代は空手に打ち込み映画とお酒をこよなく愛する、豪快で真っすぐな九州男児。

しかし、表に出ることをあまり好まなかったため、当時の映像は全く残っていません。

出社した社員が片っ端から連絡を試みるも

棚が折り重なるように転倒し、散乱した足の踏み場もないサンテレビ本社。

午前6時半、ポートアイランドに住んでいた那須惠太朗が駆け付けます。

マスター室にたどり着いた那須は、管理職などに片っ端から連絡を試みますが、全くつながらなかったそうです。

サンテレビ社員 那須惠太朗

「天井の配管が割れて天井から水が降っている状態で、這って縫ってくぐってマスター室まで行く状況でしたね」

一方、息子の運転する車で会社を目指した報道部長の八田さん。

家を出ておよそ30分、トンネルを出ると衝撃の光景を目の当たりにします。

神戸は滅んだ…

元報道部長 八田慎一さん

「長男が『うわ、これは冗談ならん』といったぐらい高層のビルがお辞儀していた」

八田さんの長男 雅隆さん

「まさしく映画の中の世界ですね。本当にもうやばいと神戸は滅んだと思いました」

神戸大橋までたどり着いたものの道路の陥没や液状化のため車を降りた八田さん。

徒歩で泥水をかき分けながら7時過ぎに会社に到着します。

那須と同じく、ポートアイランドに住んでいたアナウンサーの藤村徹さん。

藤村さんは出社した八田さんの様子が忘れられないといいます。

元アナウンサー 藤村徹さん

「八田さんがドドドドッと来て、目の色が完全にいってるのよ。あっこれはすごいことが起きているんだなと初めて認識できたというのが最初の印象」

「8時過ぎから放送するぞ」

スタジオの照明やセットが崩れ、通信手段も遮断された状況の中、八田さんは思いもよらぬ行動に出ます。

「8時過ぎから放送するぞ」

記者経験のある那須に情報収集を指示。

サンテレビ社員 那須惠太朗

「転がっている鉛筆とたまたま自分が持ってきていた手帳に状況をとにかく殴り書きしていったんですね」

那須は、他局の放送を見ながら被害状況を必死にメモに取ります。

「何しろやろうと。神戸に大変なことが起こっているというのを発信しようという思いだった」

放送を前に緊張する藤村さんに八田さんは、水の入ったペットボトルを手渡します。

特別放送開始「けさ6時前淡路島付近を中心に強い地震がありました」

元アナウンサー 藤村徹さん

「お仕事が終わったら即お酒を飲みましょう、ビールも焼酎もっていう人だったので、焼酎の水割り用に置いていたペットボトルがあった。本当に助かりましたね。会社だって自動販売機の電源落ちているし、どうにもならないし、地震後初めて取った水分があの水だったんじゃなかったかな。あれは命の水でしたね」

午前8時14分、特別放送開始。

那須のメモをもとに藤村さんが第一報を伝える。

情報収集が困難を極める中、報道記者だった門前喜康さんは、知り合いをたどり、電話をつなぐなど被害状況把握に努めました。

元サンテレビ記者 門前喜康さん

「電子手帳で順番に電話を掛けていって、リポートしてもらってフリップ(紙)に書く。電話口の人に見えたものを話してもらう」

順番に電話をして被害状況をリポート

情報収集が困難を極める中、報道記者だった門前喜康さんは、知り合いをたどり、電話をつなぐなど被害状況把握に努めました。

元サンテレビ記者 門前喜康さん

「電子手帳で順番に電話を掛けていって、リポートしてもらってフリップ(紙)に書く。電話口の人に見えたものを話してもらう」

サンテレビ本社にはその後、世界中に発信されることになる井田カメラマンが撮影した神戸市内の被災映像が届きました。

被災映像「こんな映像放送できない」

元報道部長 八田慎一さん

「井田カメラマンが帰ってきて、『この映像放送しましょう』カメラを一生懸命私は炎の中で仕事してきたと言うんで『あほ、そんなもんどこで発信できるんや』」

被災地の生々しい状況を発信することがいま被災者の求めていることでないと判断し、以降、サンテレビは、ライフラインや生活情報を中心に伝えていく方針に転換します。

元報道部長 八田慎一さん

「今どういうふうに神戸の人間が生きているのか生かされているのか、それを一つ一つ取り上げていこう」

報道部は2班体制に分けられ、およそ1週間にわたり24時間放送を継続、被災者に寄り添った生活情報を発信することを決めました。

元報道部長 八田慎一さん

「人間がどうあがいたって災害というものに対することはできない。そこで生きていかなければ、何ともしょうがないんじゃないか。そこから始まるんじゃないか」

その後も八田さんは震災や戦争の記憶を後世に語り継ぐドキュメンタリーの制作など、傷付いた人に寄り添う取材を続けてきました。

八田さんと長年付き合いのある門前さんは、

元サンテレビ記者 門前喜康さん

「豪放磊落で繊細というか、取材先の人の気持ちを汲むそういう方でしたね」

震災から30年 これまで語ることのなかった思いとは

引退後は静かに過ごそうと決めていた八田さんに妻、佳子さんから家族の絆を深める重要な役割を依頼されます。

2005年6月、家族新聞「八田タイムズ」を創刊。

八田家の出来事を毎月、佳子さんが取材。

経験豊富な八田さんが原稿を監修しています。

八田さんの妻 佳子さん

「お父さんが後できちっと見てくれるから安心していいかなと」

紙面では3人の息子や孫など、あわせて15人の楽しい日常が描かれています。

八田さんは引退後、震災など当時の出来事を家族に話すことが増えたそうです。

八田さんの長男 雅隆さん

「仕事の話とかしたのはそれこそ引退してからですね。その後、孫ができてから逆にそういう状況になってから話すようになりました」

震災から30年、当時の報道部長としてテレビで語ることはありませんでした。

元報道部長 八田慎一さん

「みんなで一緒にやろうというのが当たり前な雰囲気がこの会社にあって、しゃべりのうまい仲間ができるだけ出演してもらいたい」

被災した放送局として被災者一人一人の声を拾い、発信することを大切にしてきました。

元報道部長 八田慎一さん

「やっぱり情報をみんなで作り上げている部分があると思うんですよね。テレビは。みんなで作り上げたものが今のテレビの力だと思っています。みんなの力です」

おともだち登録するだけ! LINEでニュースを読もう! ともだち登録をする 毎週配信(月・火・金) 1回で8記事をダイジェスト形式で配信。