神戸をスケートのまちに ~母と娘が挑んだ五輪出場の夢~

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  • オープニングセレモニーの様子

  • 上野衣子さん

  • 平松純子さん

  • スコーバレー五輪では日本女子選手初の旗手を務める

  • 通年リンクが選手の育成に欠かせないと話す平松さん

  • 水まき作業を繰り返す

  • シスメックス所属 坂本花織選手

  • シスメックス所属の4選手

「神戸組」という言葉をご存じでしょうか。

神戸を拠点に練習しているフィギュアスケートの選手のことで、坂本花織選手や三原舞依選手などトップスケーターを数多く輩出しています。

上野衣子・平松純子親子。90年以上前に「神戸組」の礎を築いた親子の物語です。

神戸に通年型アイスリンクがオープン

神戸市内で唯一となる通年型アイスリンク「シスメックス神戸アイスキャンパス」がHAT神戸に完成し、6月20日にオープニングセレモニーが行われました。

ここを練習拠点にするのが、2025年のミラノ五輪を集大成としてメダルを狙う坂本花織選手や復活を誓う三原舞依選手など、フィギュア界をリードする神戸のクラブ出身選手たち。

その原点は、神戸から五輪出場を目指したある親子のフィギュアスケートへの情熱でした。

上野衣子は幻の札幌五輪代表候補だった

今から約130年前、イギリス出身の実業家グルームによって開拓された六甲山。

山上に点在した池で外国人がスケートを楽しんだのが、神戸におけるスケートの始まりだといわれています。

その外国人が楽しむ様子を見てスケートを始めた女性がいます。

上野衣子、五輪選手だった伯父の指導もあり、1940年の札幌五輪代表候補に選ばれます。

しかし、世界的な戦争の激化で札幌五輪の開催は中止。

五輪出場は幻となり、衣子は選手を引退しました。

母に連れられ六甲山でスケートを始める

衣子の思いを受け継いだのが娘の平松(旧姓上野)純子です。

純子は、戦後間もない頃、母、衣子に連れられ六甲山の池でスケートを始めたそうです。

平松純子さん

「まだ私が5歳か6歳ぐらいですかね覚えているのは、ケーブルカーで六甲山に登って環境も何もなくて、ただ寒かったな、冷たかったな」

純子が本格的にフィギュアスケートを始めたのは10歳の時。

純子が原点と語る「深江のリンク」でシーズン中は毎日朝5時から母の厳しい指導を受け練習に励んだといいます。

平松純子さん

「阪神アイスパレスという阪神電車の深江駅のそばに製氷会社が造ったスケートリンクがあって、開会式にテープカットを誰かしないといけない。母が特訓しないといかんと言って名古屋まで母と行って、1泊か2泊したかな、スーッと滑れるようになって、開会式でテープカットした」

猛練習の成果もあり13歳で全日本選手権優勝

この頃から母が果たせなかった五輪出場への思いが強くなり、日々スケートに打ち込んだ純子の努力は結果となって現れます。

平松純子さん

「厳しいですよ、むちゃくちゃ厳しいです。普段の生活も一緒でしょ、母も難しかったと思うんですね」

1956年、13歳で初めて出場した全日本選手権で優勝。

その後、4連覇するなど一気に才能が開花。

1960年、高校2年の時にスコーバレー五輪に出場し、日本女子選手で初となる旗手の大役を務めました。

フィギュアに情熱を注ぎ続けた母と娘の夢がかなった瞬間でした。

平松純子さん

「2回目のオリンピックは絶対出たいと思っていたので、絶対に達成したいと思っていました」

その後もユニバーシアードを優勝するなど女子フィギュア界をリードした純子は、五輪に2大会連続出場を果たし、1964年、現役を引退しました。

通年リンクの必要性を訴える

結婚、出産を経て母と同じ国際審判員となった平松さんは、海外に拠点を置くなど五輪や世界選手権などでレフェリーを務めます。

2002年に国際スケート連盟の技術委員となった平松さんは、2006年のトリノ五輪、悲願のフィギュア日本人初となる金メダル獲得の瞬間に立ち会います。

平松純子さん

「ポートアイランドのリンクができて、いろんな大会もできるようになりましたけど、でも通年リンクがない。やっぱり練習場、何の競技でもそうですけれども、練習場がないとうまくならないですよね。施設さえあれば絶対に強化できるし、ポピュラーになるとずっと思っていたんですね」

男女ともに日本人選手が表彰台に立つようになったフィギュアですが、選手の育成に欠かせないのが練習拠点です。

平松さんは長年、通年リンクの整備を訴えてきました。

リンク作りのプロに密着 アイスリンクはどのようにできるのか

6月にオープンした真新しいアイスリンク。

フィギュアスケートの練習拠点になる他、プロアイスホッケーチーム「スターズ神戸」の練習拠点としても使用されます。

リンクはどのように作られていくのか。

「リンクを作るプロ」の作業に密着しました。

(作業初日)

60メートル×30メートルのリンクに敷き詰められた氷を作るための冷却管。

パティネレジャー 田邉宏行さん

「水をまいてだんだん氷の厚みを上げていく作業になりますね」

この水まき作業をおよそ2時間おきに繰り返し、5日間でおよそ6センチほどの厚さになるそうです。

(作業5日目)

パティネレジャー 田邉宏行さん

「水は透明じゃないですか。きれいな感じにするために白い塗料で塗っていきます」

白い塗料をムラが出ないようにまんべんなく吹きかける作業を繰り返します。

透明だったリンクが、みるみる真っ白になりました。

(作業6日目)

パティネレジャー 田邉宏行さん

「アイスホッケーのラインをマーキングします。ラインの素材の種類は和紙のような素材でできていまして、やり直しがなかなか難しいものですから一発勝負でかなり気を遣いますね」

マーキングは作業員が手作業で行うため、最も神経を使う工程の一つだということです。

(作業10日目)

パティネレジャー 田邉宏行さん

「1センチちょっとかさ上げして、あとは質ですね。製氷車を走らせて整備していく形になります」

リンク表面を磨くなど滑らかにしていきます。

ここで重要なのが温度管理だといいます。

パティネレジャー 田邉宏行さん

「センサーの氷に埋め込んである温度計の値ですね。マイナス8度に達するように冷やし込んでいます」

田邉さんによるとアイスホッケーは固めをフィギュアスケートは柔らかめの氷を好むため、競技によって水加減や温度をコントロールしているそうです。

パティネレジャー 田邉宏行さん

「僕らはプロですから出来て当たり前ですもんね。(ジャンプが)成功した時はうれしいですね、自己満足なんでしょうけどやったという気持ちにはなることはありますね」

坂本選手「スケートを本格的に始める子を後押ししたい」

現在、坂本選手をはじめ多くの兵庫県出身の選手が世界で活躍しています。

シスメックス所属 三原舞依選手

「リンクが出来てこうして滑らせていただけて、一つの大きな夢がかなって、練習をたくさん積めるすてきなスケートリンクを造ってくださって本当に感謝の思いでいっぱいです」

シスメックス所属 坂本花織選手

「このリンクにいろんな人が訪れて、本格的に始める子とかもいてくれたらいいなって思うので、後押しできるように頑張りたいと思っています」

神戸から世界で活躍する選手を

平松さんは選手の頑張りに手ごたえを感じています。

平松純子さん

「地元から世界チャンピオン、世界選手権3連覇ですよ、すごい。うまくかみ合ってきて、すばらしいことになっていると思っています」

約95年前、神戸にフィギュアスケートの礎を築いた上野衣子さんと世界の扉を開けた平松純子さんの氷上に刻まれた夢の軌跡。

スケートのまち神戸から次の世代に力強く受け継がれていきます。

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