阪神高速道路3号神戸線 提供:@B1G_BLUE
尼崎市被害 提供:@B1G_BLUE
大山哲也さん
間一髪助かった観光バス 提供:@B1G_BLUE
芦屋市内被害 提供:@B1G_BLUE
神戸市東灘区 提供:@B1G_BLUE
当時のHi8カメラを持つ大山さん
西宮で中継するテレビ局クルー 提供:@B1G_BLUE
6434人が亡くなった阪神淡路大震災から30年。1995年1月17日に発生した震災の当日の被災地を記録した新たな映像が見つかりました。
6434人が亡くなった阪神淡路大震災とは
1995年1月17日午前5時46分、兵庫県淡路島北部を震源とするM7.3の都市直下型地震が発生しました。死者6434人。行方不明者3人。重傷1万683人。住宅全壊10万4906棟。半壊14万4274棟。火災293件。
発災当日の大阪・尼崎・西宮・芦屋・神戸を記録
岐阜県各務原市で、自動車の販売・修理を行う会社を経営する大山哲也さん(44)。Hi8の8ミリビデオカメラで阪神淡路大震災の当日、被災地の映像を撮影しました。
大山哲也さん
「こんな時代になるとは全然思っていなかった。誰もが今はすぐにビデオを撮れる時代になった。30年前ですか…」
大山さんは、1995年1月17日午前9時ごろ、大阪市港区の10階建てのマンション屋上から撮影を始めました。
大山哲也さん
「空が黒くて(普段は)神戸の山が結構見えるんですけど、それがもう煙で見えないという感じでした」
当時中学2年生で14歳だった大山(旧姓:中尾)さん。中学校が臨時休校になり、カメラを持って自転車で家を出ました。大阪市西区の土佐堀通では地面から水があふれていました。
当時14歳の中学生がカメラを持って自転車で被災地へ
大山哲也さん
「父親は電化製品が好きでビデオデッキやビデオカメラをよく持っていたんですよ。何かものを撮るのに慣れていた」
趣味のマウンテンバイクで普段から丸1日出かけることもあった大山さんは兵庫県に向かい、発災当日の被災地の様子を記録し続けました。
大山哲也さん
「神戸向きに向かう車は、尼崎ではまだ渋滞がなく走れる状態でした」
発災当日の尼崎市内の被害映像はサンテレビのアーカイブにも存在しません。映像を見ると、道路はあちこちに亀裂や段差が。大阪などから続々と消防車両が神戸方面へと向かっていく様子が映っています。
大山哲也さん
「(当時)中学生なのでもう何も考えずに、なんか撮らないといけない、今しか動けないという思いがあったので。その時も(撮影して)いいのかなという思いはあったんですけどね」
当時テレビっ子で、テレビの撮影方法を勉強していた大山さんは、場所が分かるように必ず標識を撮るように心がけていました。
阪神高速道路が何カ所も倒壊
西宮に入ると、さらに被害は深刻になります。甲子園球場を過ぎた辺りで阪神高速道路3号神戸線が崩れ落ちていました。さらに進んでいくと、高速道路が崩れていて、バスが宙づりの状態に。長野からスキー客を乗せていたバスの上にはまだ雪が残っていました。
当時の映像の音声
「うわー怖いわ。これは怖いわ」
高速道路が倒壊した地上では、トラックから煙が上がっていました。
この現場付近では大阪の民間放送局4局とNHKの中継車が映像に映っていました。大阪のテレビ局クルーは、午前中、西宮を拠点に中継していたことが伺えます。
大山哲也さん
「車が好きなので中継車ばかり撮っていた」
西宮や今津は灘五郷として知られる地域。酒蔵通りも大きな被害がありました。西宮の建石交差点では、京都市消防局の車両が寸断された道を迂回しながら西へ進んでいました。頭上の阪神高速3号神戸線はいつ崩れてもおかしくないような状態でした。
当時の映像の音声
「うわうわうわ。この段差」
神戸方面への道は大渋滞。さらに至る所で亀裂が走り、行く手を阻みます。
当時の映像の音声
「ギギギギギ(段差を進んでいくトラック)。うわー。車が擦っているな」
「行き着くところまで行こう」
大山さんは、さらに西へ向かい、高級住宅が立ち並ぶ芦屋市へ。住宅や店舗など建物があちこちで倒壊していました。
当時の映像の音声
「家が道路に出てきています。迂回しよう」
635mにわたって倒壊した阪神高速道路
さらに西に進むと、神戸市東灘区深江本町では、阪神高速道路が635メートルにわたって倒壊していました。
当時の映像の音声
「これを通ったら神戸か。うわーっ。これ(以上進むのは)限界か」
誰もがカメラを持っていない時代。大山さんは地元のテレビ局と同じ時間帯に神戸市東灘区にたどり着き、映像を撮影していました。
自転車で渋滞をすり抜けて、1月17日正午から午後1時ごろ東灘区に到着したとみられます。
大山哲也さん
「この映像も誰か亡くなっているわけですし。そう思うとね…」
大山哲也さん
「うわー。雪が降ったみたいやな。すごいな。やばいな。うわー。これって生きているんかな。みんなもう…」
「バッテリーがない」
身の危険を感じて東灘区で引き返した大山さんは、バッテリーがなくなるまで撮影を続けました。阪神電車の香櫨園駅(西宮市)のホームにたどり着いた時、駅の時計は午後3時を示していました。ホームにある公衆電話には列ができていました。さらに甲子園駅前に戻ると、道路が水浸しの状態でした。ここまでの撮影時間は53分でした。
大山哲也さん
「あっここで終わりですね。当時はバッテリーもあまり持たなくて。カメラがこれだったので、せいぜい1時間くらい。テープも高かったですし」
震災30年 動画公開へ
動画をデジタル化して保存していた大山さん。震災から30年となった2025年1月、自身のX(旧Twitter)で、動画を公開しました。
大山哲也さん
「1月が来る度に『俺は持っている動画があるけど、どうしよう』と。世に出していいのかどうか。SNSで出して叩かれるんじゃないのか」
問題ないと判断した部分のみを1分半にまとめて編集し動画を公開したところ、表示回数は700万回以上。批判ではなく好意的なコメントが続きました。
大山哲也さん
「徐々に忘れられていくと思うので、震災の記憶が。僕も当時、現地にいた人間として伝える側になったというか。そう思ったら、出してもいいのかなと思って。出すのに2年ぐらい考えていましたね」
撮影後、親や友人にも映像を見せてこなかったそうです。
大山哲也さん
「奥さんには見せましたね。いずれは(子どもにも)見せたいとは思いますけどね。日本は地震が多いですし、東日本大震災もあったし、こういうことがあったよということは伝えた方がいいと思うので」
震災を知らない人たちの役に立てばと30年が経ってから公開された新映像。残された記録映像をもとに阪神淡路大震災を次の世代へと伝えていかなければいけません。