北但大震災100年 復興と先人たちの防火対策~城崎温泉火災 北但大震災後の対策で延焼防止か~

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  • 北但大震災 旧豊岡町の被害

  • 田結地区の記念碑

  • 関西学院大学 石榑准教授

  • 豊岡市提供 港村誌文書

  • 鉄筋コンクリート造の旧豊岡町役場

  • 西村総一郎さん

  • 豊岡市提供「城崎町復興計画図」

  • 5月5日城崎温泉火災現場

■兵庫県豊岡市で死者420人

兵庫県内で400人以上が亡くなった北但大震災から5月23日で100年です。大火災で焦土と化した豊岡のまちで、今も受け継がれる先人たちの防火対策を取材しました。

1925年5月23日午前11時10分ごろ、兵庫県北部を震源とするマグニチュード6・8の地震が発生しました。豊岡市では420人が亡くなったとされています。北但大震災で犠牲者が増えた背景は火災でした。

【2003年 住民聞き取りの調査資料より(一部要約)】

「『痛い。助けて』と臨月のお母さんが梁の下敷きになってわめいていた。火が回ってきて見殺しで誰も助けに来なかった」

■田結地区 人命救助よりも消火活動を優先 より多くの命を救う

まちが焦土と化した中、被害を最小限に食い止めた地域があります。

【リポート】

「豊岡市田結地区には、100年前の震災の記念碑があります。この地域は救助活動よりも火災の消火活動を優先して、より多くの人を救ったとして知られています」

83戸中82戸が全壊、または半壊した豊岡市田結地区。3カ所から火が上がりましたが、生き埋めになった65人のうち58人を助け出すことができたとして語り継がれています。

火災の被害が大きかった豊岡市内の復興について北但大震災を調査した関西学院大学 石榑督和准教授に話を聞きました。

関西学院大学 石榑督和准教授

「北但大震災の大火の被災地は円山川沿いに4カ所点在していて、豊岡、城崎、飯谷、津居山地域。同じ災害だが、4カ所とも実際に復興の中でできあがっていった市街地が全然違う」

■豊岡市津居山地区 海面を埋め立てて住宅に

19人が亡くなった津居山地区。250戸のうち145戸が焼失し、残りの105戸も全壊または半壊しました。(旧豊岡市地域防災計画資料より)

津居山の復興の特徴は、海面を埋め立てて住宅地にするなど近代的なまちづくりです。

関西学院大学 石榑督和准教授

「震災後、埋め立てをして海岸線の位置を変えます。防波堤をつくって、共同の船揚げ場を整備して土地をかなり広げます。5000坪くらい埋め立て工事をして、道路も碁盤目状に造り直し、焼失した家屋の宅地は全部村で買収する。埋め立て後の宅地を村から各住人へと売り戻すという復興をした」

■旧豊岡町 火災に強い近代的なまちづくり

町の北部の一部を残し中心市街地全体が焼けた旧豊岡町。9割近い1887戸が被害にあい、87人が亡くなりました。(豊岡市史より)

震災後のまちづくりを調査し、震災100年の企画展に携わるハミルトン塁さんは、豊岡の復興の特徴は近代的な都市計画と火災に強いまちづくりだと話します。

ハミルトン塁さん 

「まちの建物を不燃化していく。防火建築を建てていくことを町の施策としてやりました」

一部の地主の反対で区画整理は実現しませんでしたが役所や警察署などの公共施設が火災に強い鉄筋コンクリート造りで建築されました。当時の兵庫県は、民間の建物にも補助金を出し、48軒の建物が鉄筋コンクリート造りで建てられました。

ハミルトン塁さん

「道に面した奥行き5~6メートルくらいのコンクリート造で、まちで火が起こっても

この広い道路と防火帯代わりの鉄筋コンクリート造の建物で火が食い止められる」

北但大震災の1年8カ月前に起きた関東大震災の復興建築物は空襲や都市開発で姿を消しましたが、豊岡では、当時の建物が現在も36軒残っています。

ハミルトン塁さん

「当時鉄筋コンクリート造で家をつくるというのはまだ全く主流ではなくて、店舗兼住宅みたいな小規模なものにコンクリートが使われた例はそもそもあまりない」

■旧城崎町 景観を守りながら住民主導でまちを再建

農村部を含む702戸のうちおよそ8割の548戸が全焼した旧城崎町。(北但震災誌より)旅館で昼食の準備をしていた時間帯で、272人の死者のうち7割が女性でした。行政主導で復興した豊岡とは違い、城崎では、住民主導で温泉街の景観を守りながらまちの再建を目指しました。100年前、城崎町の復興に尽力した西村佐兵衛町長。ひ孫にあたる西村総一郎さんは、震災100年のシンポジウムの実行委員長を務めました。

西村総一郎さん

「行政からは鉄筋で復興してはどうかという話があったようですが、やはり城崎は温泉街ですので元のまちを戻すと。子どもたちが安心して勉強できるようにと、兵庫県では2番目の鉄筋の校舎で復興させた」

外湯第一主義を掲げて、震災前の元の場所に外湯を再建。住民たちは区画整理のため、土地の1割を無償提供し、防火対策として道路の幅を広くしました。水害に備えて川幅を広げてかさ上げ工事を行い、大谿川の両岸には、玄武岩が積み上げられています。

西村総一郎さん

「元のまちに戻しつつも、外湯は鉄筋でつくられている建物が多くて、公共色が強い建物については要所要所鉄筋で造って、もし火が出た時には必ずここで止めるんだと火伏せ壁という防火帯をまちの中に配した」

■5月5日の城崎温泉火災 北但大震災後の防火対策が延焼防いだ可能性

 延焼を防ぐ当時の対策が100年後の2015年、生かされた可能性があります。5月5日、城崎温泉で火災が発生し、7棟が焼けました。この場所は、北但大震災後、延焼を防ぐための防火地帯がつくられた地域でした。

豊岡市城崎消防団 椿野仁司団長

「鉄筋コンクリートで守られているからこちらに飛び火することがなかった」

 城崎の文化財に詳しい市民団体・豊岡まちなみ連盟会長の松井敬代さんによりますと、他の地域の延焼を防ぐため、川から直角の道路沿いに震災後、4軒の鉄筋コンクリート造りの建物が建てられ、このうちの3軒が当時のまま残っていました。残りの1軒もその後、コンクリート造りで建て替えられていたのです。

椿野団長

「木造と木造との街区の間に鉄筋コンクリート造りを入れた。銀行、病院、警察、郵便局、外湯。こういうものを点々と間に挟んで、そこから類焼・延焼を防ぐまちづくりを北但大震災の後にしてきた。所々でとどめていくというやり方をやったことは本当に素晴らしい先人の皆さんの知恵だったと思いますね」

 北但大震災から5月23日で100年。景観を残しながら防火対策を行うなど、当時の震災の教訓が今も豊岡のまちで受け継がれています。

取材:藤岡勇貴(サンテレビニュースキャスター)

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