松浦潔(まつうら・きよし)さん
神戸市内でクリーニング店を経営。
震災で自宅3階が崩れ、2階を押しつぶす。
2階で寝ていた長男・誠さん(当時高校1年)と、ホームステイしていたオーストラリアの留学生スコットさんが死亡。
「震災モニュメント交流ウォーク」に参加して遺族同士で語り合う。
現在、NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」(略称HANDS)の理事長を務める。
HANDSは毎年1月17日に神戸・東遊園地でつどいを開くほか、毎月の交流ウォークや、海外被災者への支援も行っている。
◇HANDS: http://www1.plala.or.jp/monument/
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震災の朝
何が起こったのか本当に分からなかったですね。
もう振り回されて、あちこちで頭は打つ。
気が付くと下から「階段がないから降りたらあかん」という大きな声が聞こえてきてね。
階段がないという意味は、僕がいた3階が、2階と離れてしまって降りたら下まで落ちてしまうところだったんです。 |
長男を亡くして
子どもはうつ伏せに寝てたんですけど、上から押しつぶされて、ベッドの縁を、助けてくれという意味で叩いていたんです。
声も聞こえていました。
子どもを出そうと思って、足をつかんで引き出そうとしても3階部分が2階を完全に押しつぶしているので、全く動かないんですね。
まだ足はぬくくて、何回も試みましたが、その時に余震が来るわけです。
だんだん足が冷たくなってきて、ああこれで死ぬのかなと思ったんです。
子どもを出せたのは夜中の12時をまわってました。
顔は泥だらけで、悔しそうな顔をしてましたね。
優しいのに、鬼みたいな顔をしていました。
だいぶ苦しかったと思いますね。あの顔はずっと忘れません。
なんで僕だけがこんなことにならなあかんのかと、ずっと思ってましたね。 |
震災モニュメント交流ウォークに参加して
ウォークに参加したとき、同じ長男を亡くした方と知り合って、同じ境遇の人がいると思いました。
遺族同士で、震災の時どうだったかと話し合うことでやっぱりみんな、同じつらい思いをしてるんやな、ということが共有できました。
そしてこの交流ウォークを続けていかなければいけないと思いました。 |
NPO結成の目的
いま集まっている人間だけでは、このまま年月が経っていくと、年がいき、順番に亡くなっていきますよね。
組織というものがあれば、語り継いでいけるんではないかという思いがみんなの中にあって、NPOを作ろうかということになりました。
「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」(略称HANDS)には震災遺族だけでなく、事件事故の遺族も一緒に活動しています。
家族を亡くしたという思いは一緒です。
何か起こるたび、よく「命の大切さ」と言いますが、それをみんなで本当に考えていける組織はなかなか無いと思いますね。 |
同じ遺族に伝えたい
今年も東遊園地でつどいを行いました。
10年の時は来れなかったが、11年目に来たよという人も今年ありました。
遺族の中で、つどいに来れない人は、いっぱいいると思います。
僕もウォークの付き合いがなかったら、たぶん行けてないでしょう。
小さなきっかけなんです。
閉じこもっている人が悪いとは言いませんが、でも、つらい目にあった人がここに集まっていることを分かってもらえたら、また話もできると思います。
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Q.誠さんはいまお父さんの活動をどう思っているでしょうか?
どうでしょうね…
自分が亡くなってから、息子を捜して、会って、どないやったと聞くまでは、へたるわけにはいかない。続けなければと心の中にあります。
「頑張ったな。よう言うてくれたな」という言葉を聞きたいなと思っていますね。 |
長宅智行(ながけ・ともゆき)さん
小学校1年生の時、震災が発生。
神戸市内の自宅マンションが全壊し、過労と心労で父・喜雄さん(当時51歳)が急死した。
あしなが育英会の集いに参加し、あしなが育英会が神戸市東灘区に開設した「レインボーハウス」に通う。
2002年、阪神タイガースの星野仙一監督(当時)の招きで甲子園球場へ。始球式のボールを投げる。
2005年の「震災遺児7か国世界子ども会議」では遺児代表を務めた。
現在、高校3年生。春から大学生。
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震災の朝
まずドーンと一発来て、その時に目が覚めました。
ものすごい揺れで、何がなんだか分からない状態で、お皿の割れる音がして、家具が倒れて、本当に怖かったです。 |
父を亡くして
死ぬという言葉は知っていても、死ぬことがなにか分かりませんでした。
病院で、お父さんが冷たくなって、お母さんとか、おじいちゃんとか泣き叫んでいるのに、僕だけ、その時、何も感じませんでした。
葬儀で、最後に棺にお花を入れるとき、はじめて、様子が違うと気づいて、自然と涙が出てきました。
その時、やっと、死ぬということがどういうことか、身をもって知りました。
お父さんを亡くしてから、落ち着きがなくなりました。
ちっちゃい時から両親に甘えてたので、お母さんに頼るようになりました。 |
あしなが育英会とレインボーハウス
あしなが育英会の集いに参加して、今ではかけがいのない、兄弟に近いような友だちができました。
集いをきっかけに明るくなっていき、今の自分がいるのはあしなが育英会と、友だちのおかげだと思います。
はじめて集いに参加した日をきっかけに、変わっていけたと思います。
レインボーハウスは「第二の家」みたいな感じで、暇な時とか行って、職員さんとおしゃべりしたり、学生さんと遊んだりします。
外に行って、カラオケとかボーリングをしたり…
本当に大切な場所ですね。 |
甲子園のマウンド
声がかかったときは本当にびっくりして、何のネタやろと…(笑い)
マウンドに行くときは、頭真っ白で、甲子園はでっかいなと思いました。
投球は、アウトコースの低めにストライクが投げれました。
一生の思い出ですよね。
星野さんから、
「くよくよしていても、何も始まらないから、前に進もう」
と力強い言葉をいただいて、それでまた元気になれたというか、また自分が変われた感じがしました。 |
各国の遺児と交流
集いには通訳とかいますが、毎回、合言葉を作って、それが挨拶代わりになります。
去年の夏は、「チキッ」とやったり、去年の1月は、「ヤッホー」とやったり。
食事の時とか、通りがかりに、「ヤッホー」とか「チキッ」とやると、それだけで笑顔になれ、国境や言語の壁を越えることができます。
親を亡くすという同じつらい体験をした僕には海外の遺児たちを放っておけないというか、助けてあげたいというか…
つらいのは自分だけじゃないよ、僕たちが支えてあげるから、一緒に交流して友だちになろう、つらいことを乗り越えていこうと思います。
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Q.各国の遺児と交流する姿をお父さんはどう思われるでしょうか?
まあ…喜んでくれるかなと…
体ばかり大きくなって、心は成長していないんですけど、それでも…喜んでいると思います。 |
瓜谷幸孝(うりたに・ゆきたか)さん
神戸で貿易会社を経営。
1993年、NGO「アジアアフリカ環境協力センター」(略称アセック)を設立し、モンゴルのマンホールチルドレンの支援などを行う。
震災で神戸市内の自宅が全壊。
仮設住宅への「元気メール」を呼びかける。
アセックはトルコ・イラン・アフガニスタンなど地震被災国に救援物資を送り続けている。
◇アセック (TEL)078−392−3986
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震災の朝
ゴーという音ですよ。
最初は夢うつつで、飛行機が落ちて来るのかなと…
私は新長田にいたので、電車が突っ込んで来るのかとも思いました。
すぐドーンと来て、無意識のうちに隣に寝ていた当時82歳のお袋の上にかぶさっていました。 |
翌日届いたファックス
地震の翌日、会社とアセックの兼用事務所に行くと、奥の方で音がするので見たら、ファックスから川のように紙が流れてきていました。
私は機械が故障したのかと思って、紙を見ると、1枚はモンゴルの赤十字からのメッセージで「モンゴルのことわざに、『困った時の友が真の友』。私たちがあなたたちを助ける番です」とありました。
また中国からは、「一つの所に災難があったら八方が助ける」というメッセージが来ました。
そのほか日本全国の友だちとか、NGOや、これまで支援したアフリカやアジアの大使館からファックスが来ました。
私はそれまで放心状態で、腕にケガをしていましたが、そのメッセージを見て、何と言えばよいのか…電気ショックのような…血が全身に通いだし、心臓の鼓動がしてきたのを感じたんですよ。
事務所の中で、わーと叫びました。
本当に人が困っているとき、心のこもったメッセージとか、1本の電話が人を蘇生させますよ。 |
元気メール
仮設住宅での孤独死や自殺の記事が、毎日のように新聞に出ていました。
その時、広島のボランティアの方から
「何かできることはありませんか」
と言ってきたので、私の体験をヒントにして
「広島から暑中見舞いとか、励ましの手紙を仮設住宅の住民に送ってもらえませんか」
と頼みました。
それが始まりです。
去年1年でも、復興住宅では69人の孤独死がありました。
今年から新たに復興住宅のお年寄りに手紙の交流をやろうと思っています。
この10年間で、手紙は8万通来ました。
相手の子どもたちは、最初は一所懸命に、おじいちゃん、おばあちゃんを気遣う手紙を書いてきますが、文通が進むうち、子どもは自分の悩みを書いてくるんですよ。
親にも相談できないこと、先生にも相談できないことを。
おじいちゃん、おばあちゃんはそれに返事を書き、子どもの役に立つことが、また生き甲斐にもなるわけです。 |
素早い救援を
メールでも、手紙でも、物資でもいいと思うんですよ。
応援しているよ、助けるよという意思が早く被災者に伝われば人は待てるわけでしょ。
自分を助けてくれる人がいるということがあればそれを支えにできます。
「兵は拙速を尊ぶ」と言うように、とりあえず、一番早い便で送る。
量は多くないし、全部の人にはまわりませんが、遠い日本から、震災にあった神戸から支援が来たと、ニュースなどで被災者に伝われば人は生きていこうとする。
生きる支えになると思います。
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Q.災害のたびに救援活動をするのは大変ではないですか?
これも性格みたいなもので…(笑い)
何かあると、じっとしておれない。
そして私の震災体験が動かしていると思います。 |
村井雅清(むらい・まさきよ)さん
神戸・長田区の靴工房が被災。
仮設住宅での仕事づくり「まけないぞう」運動を展開する。
神戸のNGO活動の草分け・草地賢一さん(2000年死去)らとともに、サハリン地震(1995年5月)以降、災害が発生するたび救援委員会を立ち上げる。
2002年、恒常的な活動組織として「海外災害救助市民センター」(略称CODE)を結成。
理事・事務局長を務める。
◇CODE: http://www.code-jp.org/
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震災の朝
私は長田で靴の工房を持っていて、ちょうど震災の朝は「神戸っ子サンダル」と名付けたサンダルを、東京に売りに行くため、前日から夜行バスで向かって、朝7時過ぎに東京に着きました。
だから私はあの大変な揺れを体験してないんです。
翌日の朝早く、初めて地震後の長田を見ましたが、戦争のあとの焼け野原とはこういうことなのかと感じました。
私の工房は無事でしたが、類焼を防ぐための水が入って仕事ができなかったので、もう放っていました。 |
震災直後のサハリン支援
震災の年の5月にロシアのサハリンで大きな地震がありました。
5月というと、ちょうど避難所の人たちも衣替えのために毛布を片づける時期でした。
私どもが、サハリンに毛布や防寒着を送ろうと提案したら、もう避難所から、ボランティアグループから、ものすごい量の毛布が集まりました。
最終的には8000枚集まり、サハリンに送りました。
びっくりしたね、本当にわんさか集まってきた。 |
NGOの精神
草地賢一さんの言葉…「言われなくてもやる」…
その精神をNGOとして受け継いでいるつもりですが、十分かどうか、天国からどう見てるか分かりません。
やっぱし、ボランティアとかNGOというのは、人に言われて動くものではないし、特に、政府とか権力とか「官」に言われてするものではない。
自ら主体的に動くのがボランティア・NGOの精神です。
支援する相手は、政府とか赤十字などではなく、市民あるいはNGOです。
災害からの復興というのは、市民が主体となってやっていく。
これを崩すと本当の復興はないと思っています。
どこの国であっても被災者自身の立ち上がりを少しでもお手伝いできたらという思いが強いわけですね。
インドなど各国には素晴らしいNGOが育っています。 |
CODEの課題
まずは人です。
担っていく人を、どのように切れ目なく育てていくかが大きな課題です。
そのためには資金ですね。
財源をきちんと安定的に確保できること。
これも大きな課題です。
いまCODEには有償スタッフが4人います。
私たちは、皆さんの寄付の15%を管理運営費・間接経費に使わせていただきますという原則でやっています。 |
支え合いの連鎖
例の9.11の事件以後、マスメディアでは「憎しみの連鎖」という言葉が出てきますが、私たちは、同じ被災市民として、「支え合いの連鎖」を世界中に広げていけるという考えからスタートしています。
支援のたび、毎回毎回そういうことをもろに感じています。
去年12月に、支援しているスリランカの漁村に行って、大津波1年のメモリアル集会に参加しました。
その時、漁村の女性のリーダーが、
「私たちはお金の支援はいらないんです。勇気をください」
とはっきりおっしゃいましたね。
私は感動して、「支え合いの連鎖」は確実に広がっていくなと思いましたね。
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Q.もう靴のお仕事は…?
(笑い)そうですね。
まあ、戻りたいという気持ちはないではないですけれども、もう無理でしょうね… |